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以下、頭を整理しながら書いており、後で考えを一変させるかも知れません。 < 頭に暗雲が差す… > 「頭に暗雲が差す時には筮を執るべきではない」と書き始めて思ったが、「頭に暗雲が差している」とは何のことか分かるかな? 振り払おうとしても払えない暗雲の到来は誰にでもある筈。例えば、失恋した時、身近な人が亡くなりそうな時。どうしても消えない、動かない、重いものが頭を被う、あれのこと。時運が塞がる 12【天地否】|||(← 左を上に。以下 同じ)の状態。 そういう時には、こちらの場合、何度 筮を執っても、思わしくない占示ばかりになる。その時には願う方向があるわけだが、その感情を振り払ってシラフになったつもりでも、嫌らしいほどに願いとは逆意の占示が続くことになる。 それで、実際の成り行きはと言うと、現実と付合する・しないはマチマチ。 ここで、現実と付合しないとは、いわゆる、問いとの不応(卦読みのレベルで間違いがないとして)。寝て起きて、気分が変わって、暗雲が外れたところで筮を執ると、占示も正常に戻る。 例えば、毎日 意中の人との恋愛交際への成り行きを質したとして、ある日 振られたと思い込んで頭に暗雲が差すと(= 暗雲を呼び込むと?)、占示もダメ。実は失恋が勘違いだったとしてそれが分かったとすると、気分が変わって暗雲も消えるし、占示も相応になる。 だから、必ずしも客観的に不幸な現実があって頭に暗雲が被う、とは限らない。時には自分で暗雲を作り出しているだろう。暗雲が先にあり、占示が続く。 占示はこの暗雲に強く引っ張られる。占示が時間・空間で、暗雲が強い重力でこれらを曲げるブラック ホールのような。 ここで、暗雲自体に悪性があるのではなくて、これはそのブラック ホールのように魔物を呼び込む、という捉え方も頷ける。「泣き面に蜂」、「弱り目に祟り目」で、今の自分のように、不幸はよく重なる。 他方、占断ということでは、占示よりも、頭に暗雲が差しているかが現実判断のポイントになったりする。現実がここに引っ張り込まれる感覚がある。 一つ前の記事で「日常、自分の中の微細な変化とか、何かこう地に足が着いていない浮ついた感覚の変性意識[トランス]などに注意を払っていることが大事」と書いたが、この暗雲にこそは注意深くいないといけない。 また、暗雲とは逆に、頭に明雲が差す、も実感としてある。これは晴れ晴れしい感覚の良運そのもの。時運が開いて、物ごとが自身の望む方へ運ぶ。宜しき占示もこれに続く。11【地天泰】|||の状態。 明雲は慣れると自分で作り出すことも出来るし、この流れは自分の中で握って離さないようにしたい。 < 遊魂か、鬼神か >
易の占示に半信半疑の熱田神宮の宮司には「従来 神明 一回も余を欺き給ひし事なし」と答え、「一毫の妄念をその間にはさむ時は、たとい十有八変(= 本筮法)するも、あに鬼神のこれに感通するの理あらんや」と述べて、私欲的に筮を取れば、「鬼神」(= “易神” )ではなく、「遊魂」(= 邪靈)が感応して前途を誤りかねない、と戒め、卜筮は “易神” や靈に感合したものと捉えていた。 翁の認識には時代的な限界があるだろうが、この「遊魂」の部分は実感として好く分かる。 こちらは易を成す摂理とは精神科医・心理学者のカール=グスタフ=ユング[SWI]が提唱した「集合的無意識」や近代神智学で言う「アカシック レコード」との時間・空間を超えたシンクロニシティー[共時律]による4次元超しの作用だと思うが、執筮での問いに対して占示は、しばしば非情でありながら、とても機械的とは思えない人間臭い示され方をするので、人は何か人格的な “易神” 様の存在を想定するようになる。占示を「御神明」と言い、 “易神” 様との夾雑のない酬酢を追求することになる。 そこで、呑象 翁はその酬酢の障害となる諸原因を擬人的に悪しき遊魂と言われたのかも知れない。 そもそも易占は、依頼者 ←→ 問筮者による問い ←→ 占示は物理的に切れているのに、占示が問いに対する意味内容的に能く沿う。しかも、暗雲も、遊魂も、易神も、筮者の手をもって得られた占示に物理的に作用する、という摩訶不思議。 さて、筮を執るべきではない、というのは問いや成り行き等に対して占示の不応が起こりがちだから。不応を得るのも集合的無意識等の仕組みの内、という捉え方もできる。 タロットも同様だと思うが、例えば、悪事や不労所得を目的にして易を使うと、決まって失敗する。チャランポランの占示を得る。 横浜の基礎を作った大実業家だった呑象 翁は材木の儲け話のことで一度 占示の通りになったので、再び易を利用したら、大損害となった話は有名。 Wikipedia のエドガー=ケイシー[USA]のページにこんなことが書かれている。「彼の情報源であるアカシック レコードは、求められる情報の性質によって得手・不得手があるとされている。例えば、前世の行為に基づく災難や病疫、聖書の記者に聞かなければ理解できないこと、質問者の個性や長所、治療や健康に関する医学的な質問、といった属人的な情報は比較的有用であったとも言われるが、一方、石油はどこに埋蔵されているか、日本軍の侵攻の予定、あるいは、普遍的な真理や瞑想の人生への応用等の質問への回答は有用とは言い難く、具体性に欠き抽象的な表現が多い。時々 寄せられる、予言が正確でなかった場合の苦情への回答や、予言ができないという説明として、個人の行動に依存するものや選択によるもの、あるいは、ビジョンの不足により予言できないものもあるとも述べている」 だから、アカシック レコードに弾かれて不応になる問いもあるし、予知を知った当事者が別の選択をしてハズレの扱いされる場合もある、と。 < 課題、その超克の方向性 > ●アナログ状態にある占術としての易をより確かなものにしたい。そのためには易を成す幽妙な摂理の仕組みの理解なしには。それには、空間を含めて11次元あるという最先端物理の次元理論などに齧り付くことで徐々に納得に近づけるかもしれない。 ●頭に生じる暗雲については、これを自分の中で制御して、逆の明雲を呼び起こしてしっかり維持することで、不運な現実を変えることが可能になる。これはメンタルの技術。
色々 難しい理屈を考えても、結局こういうことを知りたいわけです。なまじ先端物理の仮説を前提にして質すと、卦読みが困難に。
【離】は “次元” と観ても好いかも知れない。 この爻はこの卦で最も燃焼の時、最善の位地なので、この方向で熱心に取り組むべきことを言っているようだが、具体的には深掘りできない。 どんな占示を得るかと思ったが、問いに対して占示の意味内容がよく合っている。易とはこういうもんです。世界遺産とするべき。 |
#シンクロニシティー #不応 #暗雲 #明雲 #幽魂 #鬼神 #易神 |
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得爻や占事などにも拠るけれども、例えば恋愛占で「彼女とデートできるか」と質してこの卦を得た場合、その時までに何度か会話をするとか何か行動を起こしていないのであれば(多くの場合がそうだが)、「同じ人」即ち、デート出来ていない今のあなたと同じことですよ、という読み筋で解釈を進めるべきだろう。 その人はその後も可能性を上げる行動には移らないものだ。方法を詰めて、しっかり行動することなければ、偶然の幸いを待つだけだ。 |
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【 日 本 】 古来、左上座。おそらく遣隋使により「天帝は北辰に座して南面す」の北辰信仰が持ち込まれ、そこから始まる。帝の左手は太陽が昇る東で、右手の日が沈む西よりも尊重された。古来、皇太子の居所を東宮と称するのもここからで、東は【震】で “長男” 。 ●同時期に建設が始まる寺院の伽藍では五重塔から金堂が重視されるようになり、飛鳥寺[法興寺]・四天王寺(6世紀末)では中門を潜ると正面に五重塔を見上げるが、法隆寺(607)では、東に金堂、西に五重塔の配置で、既に左上位の影響が見て取れる。厩坂寺(669、平城京に移転して興福寺)では、五重塔は回廊の外の東手に。平城京の元興寺(8世紀前半、飛鳥寺を別に建築)は、東に五重塔、西は小塔院。 ●呼び名のことで言うと、平城京・平安京は、大内裏から南へ続く朱雀大路から左手(東側)が左京、右手(西側)が右京。 ●同時期の神話でも「古事記」(712)では、伊邪那岐命(イザナギノミコト)の三貴子誕生の場面で、左目から天照大神(アマテラスオオミカミ)、右目から月読命(ツキヨミノミコト)、鼻から須佐之男命(スサノオノミコト)が生まれたとある。 ●律令制の官職では、雛壇の中央に太政大臣、その左手に次席の左大臣、右手に右大臣の序列。
●大相撲の横綱も東が格上で、赤房下で塩を取り、西は白房下。易の陰陽でも赤は陽。 ●能・歌舞伎など舞台から見た上手(左)・下手(右)も同じ。 ●生活習慣では、家の表札は家から見て左の門に掲げるのが一般的。 ●着物は男女ともに右前(=「前」とは手前のこと。着る側から見て右)、上位の左を外にするという考え方で、衣服令(エブクリョウ、719)の「初令天下百姓右襟」の庶民は右前に着ることという一文が起源。右利きは左前に着ると動き難いし、左袖にものを入れ難い。死者に和服を着せる時には左前に。洋服では男性用は右前、女性用は左前が一般的。 ●尚、同様に、引き戸(襖、サッシ…)を右を手前にはめ込むのは、逆だと戸を開き切る場合に取っ手が邪魔になるから。 ●和食では、飯茶碗は左、汁茶碗は右に配膳。焼き魚も皿の左側に頭を据える。 ●上位・下位のこととは別に、河川では、川下に向かって、左側が左岸、右側が右岸。 ●道路の左側通行については江戸時代には徹底されていた。一般に道幅が狭く、武士同士がすれ違う時に左腰の刀が触れ合わないように、という説あり。明治時代に友好国のイギリスに倣って正式に交通法として定めた。戦後、車両は左側通行、歩行者は右側通行の対面交通に。 ●複式簿記では、借方を左側に、貸方を右側に書くように定められているが、これは明治時代に福澤 諭吉がUSAから輸入。
●内裏雛は天皇・皇后を模しており、京雛は伝統通りに左が上位だが、関東雛は関東の人形業界の団体が昭和天皇の即位の礼に倣おうと呼びかけて男雛と女雛の位置だけを逆にした。尚、童謡「うれしいひなまつり」の歌詞で「お内裏様とお雛様」としているのは作詞のサトウハチローさんの勘違いで、人形は男女一対で内裏雛。「赤いお顔」は左大臣。 ●この流れから、和式の結婚式でも、新郎が右、新婦が左の位置が一般的になった。 ●今、国会の議場では、議長席の右手が右派、左手が左派の政党で、フランス革命後の憲法制定国民議会に倣っている。各党の中では議長席に対して右から当選回数の若いなどの順で座席を割り振る(左上位)。尚、国会議事堂は、中央塔から見て、左側に貴族院の流れを汲む参議院を配置。 ※ 日本では古来、凶事(戦い、葬儀…)の場合には、上位と下位の優先順位が逆になる。あとに書く「老子」の影響。
【 欧 米 】 右が上位。聖書のマタイによる福音書「そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」から、右を肯定的に、左を否定的に捉える。 ●キリスト教では、古来、右道が正道の教え、左道が異端の扱い。古代インドの礼法では右回りを吉、左回りを不吉とした。ヒンドゥー教やイスラム教でも、例えば、右は清浄の手、左は不浄の手。現代のオカルトの世界でも、右道を恩恵的な白魔術、左道を邪悪な黒魔術の扱い。 ●外交儀礼ではプロトコールから、外国の元首を歓迎式典に迎える時の位置も賓客を右に。日本では天皇も宮中晩餐会で右の席を国賓に譲り、両夫妻で並ぶ場合にも相手夫妻を中央に置くほど徹底されている。中国ではしばしば逆。2018 年からの米朝首脳会談ではUSAは金 正恩を常に左に位置取りさせた。 ●国旗の並びも、外国に敬意を表して、外に向かって外国の旗を右に掲揚。但し、USA・カナダ・フィリピンなどは自国の旗を優先。自動車の座席順も同じ。 ●オリンピックの表彰台も同じで、中央の優勝者から見て、右手が準優勝者。 ●船舶も航空機も国際的に右側通行。 ●「右へ倣え」は軍隊用語で、19紀後半に伊豆韮山の代官だった江川 太郎左衛門[-坦庵]が家臣にオランダ語の兵隊の演習用語を訳させたことに始まる。 【 中 国 】
●但し、周易の周の時代は左が上位で、以後も東周内の戦国時代から秦・漢・元の時代を除いて左が上位。右を貴んだ時代は乱世が多い。 ●陰陽五行説では、左が陽、右が陰。 ●「老子」には「吉事尚左、凶事右」とある。 ●易の占例が多数 扱われている「春秋左氏伝」は東周内でも戦国時代の手前の春秋時代の歴史書。 ●日本に輸入された言葉には右上位が目立つ。「左遷」「右に出る者はない」は前漢に書かれた「史記」(司馬 遷)が出典。「座右の銘」は南北朝時代に編纂された詩文集「文選」中、後漢の崔 瑗[崔 子玉]の文章にある。 ●「右顧左眄」は日本製で、中国では「右眄左顧」が明の時代の小説に見られる。庶民レベルでは左・右の優位はマチマチ。 「左」・「右」の字は易辭にも散見される。この内、少なくても【雷火豐】九三の辭は右が上位の扱いで、漢の時代に整えられたか。 7【地水師】|六四 [爻 辭]師(シ)左(= 高地を左後にした土地)に次(ヤド)る。咎(トガ)无(ナ)し。 [象 傳]左に次る、咎 无しとは、未だ常を失はざる也。 11【地天泰】||| [大象傳]天地 交わるは泰なり。后(キミ)以て天地の道を財成(サイセイ)し、天地の宜(ギ)を輔相(ホショウ)し、以て民を左右す。 36【地火明夷】||六四 [爻 辭](上六の)左腹(左 = 三〜五爻の互体【震】)に入り、明夷の心を獲て、呼が門庭を出づ。 [象 傳](上六の)左腹に入るとは、心意を獲る也。 同、六二 [爻 辭]明 夷(ヤブ)る。(六五の)左股を夷る。用て拯(スク)ふに馬[九三?]壯んなれば、吉。 55【雷火豐】|||九三 [爻 辭]其の沛(ハイ)を豐(オオ)いにす。日中に沬(バイ )を見る。(上六により)其の右の肱(ヒジ)を折る。咎 无し。 [象 傳]其の沛を豐いにすとは、大事に可ならざる也。(上六により)其の右の肱を折るとは、終に用ふ可からざる也。 |
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昔、神保町の原書房の棚の一番高いところに 100 万円の張り紙で置かれていた易占界の奇書。2002/ 4 復刊されて買い、これに続く「うらおもて周易作法」と一緒に大事に読んでいたら、全て津波に消え。東洋書院さんには何度も再復刊のリクエストしていた。
2002 年版は本自体の上に温かい湯飲み茶碗を置いたら外装の塗りが溶けてクッキリ跡が点いてしまったが、今度のは布張りに変わった。 もっとも、この本の頁々で言わんとするところが理解できて価値が分かる人が全国に何人いるか? 尚、東洋書院さんから直接 購入すると、消費税も送料も不要。38,000 円。 (株)東洋書院 http://www.toyoshoin.com/news/n20869.html |
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“易神さま”は問いに対して常に正面からお答えになるわけではない。特に、問いの前提に関わる示され方がしばしばある。 こちらも鑑定の依頼があると、そこが気になる。現実に依頼者にさえ会っているわけではないし、そのお相手の要素は大きいから。「好きな人がいるんですが・・・」という場合に、お相手は既婚者ではないかな、とか、遊び人のような人ではないかな、と。
上九の爻辭は、耳を塞いで話を聞かざる、即ち、やるな、とも取れるが、罰するの卦の上爻で、ここはビジネスをやるべきか云々よりも、この企業本社が警察の摘発を受けて刑事事件になりそうな案配。つまり、問いの前提になる肝心な部分を示すことによって間接的に問いに応えている、と。 卦をあちらから見ると、22【山火賁】|||(← 左を上にして見る)、事業に賁(カザ)ったところがある。 占示は、不思議なことだが、筮者の能力・経験等に応じる形で示される。問いもどの程度 頭の中で整理されているか分からない。だから、他の人が得た卦・爻を解釈するのは宜しくない。 確認すると、アムウェイのように商品の売り買いを媒介にして子・孫を増やし、分配金を配るのはマルチ商法で合法。 他方、商品の売り買いを媒介にはしていても、お金の分配が主目的になっていて、商品の値段が吊り上げられ、そこには親となる権利金が含まれ、分配金の原資にもなっていれば間違いなくネズミ講と判断される。今回のはこの性格が強い。 |
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例えば “二者どちらに勝機があるか” の問題意識で、A者・B者とそれぞれについて筮を執ったとして、そもそも双方の示され方を一つの判断基準の上に乗せらるだろうか? 言うまでもなく占示は、問いに対して「はい、いいえ」的に読める場合もあれば、大成卦の画象などでもって具体的な形や数として判断される場合もあって、示され様が異なる。これをどう優劣比較できるだろうか? そういう時、双方の明暗がハッキリしていればその通り判断するだろうが、実際にはどちらが優位とも言い難い場合が多い。 また、このことを踏まえて、更に、卦に対して爻(即ち、卦面)がその逆意の場合、岳門の言う「卦の勢い」を考慮できるものだろうか? 優劣つけ難い場合の材料にと言うが、こちらには迷いの元であり、無用の道具だ。 なので、試行錯誤をやって来て、今回のUSA大統領選挙の行方を質した占もそうだが、占題「選挙本番への機運を質す」で、どちらか一方についてのみ筮を執る、ということで判断をやっている。比較しての判断を避ける。 また、この時、勝ち負けを straight に質すと、結果からしても確度にムラがある。この「機運を質す」という質し方は勝ち負けや白黒の占に限らず大切なことで、本来、易は物ごとの機運とか兆しを観るものだと言ってよい。先の展開は既に兆しが始まっている。その時が近づいてみて占示の意味が漸く分かる、というのもそこにある。だから、易はあまり遠い先の判断には向かない。 もっともこうした場合、ドナルド=トランプについてしか筮を執っていないから、彼もヒラリー=クリントンも選挙戦を降りるとか、或いは、バラク=オバマが大統領令を発令して別に臨時大統領でも立てるとなった時には、読みを外しかねないが。 三択やそれ以上の場合も基本的には同様のことが言える。勿論、数者から一者を当てる必要があるような場合にはもうちょっと工夫が要る。 |
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紛失してしまった昔の占術関係の雑誌(非売品)に、上海の高名な卜占家と若い才能豊かな卜占家との対談が載っていた。記憶が消えない内にメモ。 その中で、高名な卜占家がその若い卜占家に「当たる秘訣は何だとお考えですか」とさりげなく尋ねると、若い卜占家は「私の占術が天理に適っていることは勿論ですが、一つ一つの筮を信じ切ることですね。信じ切って筮を執るということだと思います」と。 「それはあなたのお師匠さんから口伝されたのでしょうか」 「いいえ。私は今までどなたにも着いておりません。事実に付合するということでは、一番には、筮において何の疑いもなく御神明を得るものと信じ切る、筮を信じ切る、そこに掛かっていると思います。しかし、このことは先生も自明のこととしてお分かりではないでしょうか」 「ハハハハ。しかし、そこまで明確に自得されたのですね。私はたまに後進の人にこの質問をするんですが、そのように答える人はなかなかいないし、そのように答えたとしても、これを自得して本当に分かっている人は10年に1人ぐらいのものです」
「筮を信じ切る」ことが御神明を得るポイントであることは以前にも書いた。 これを自分で研鑽の中で自得したものかは兎も角、筮を信じ切れていなければ、半信半疑の頭なら、鮮明な御神明を得ないものだし、ものにならない。「筮を信じ切る」とは、もっと正確に言うと、易を為さしめる摂理を信じる。 それではと、そのプロセスを書くと、易占は専門になるほど書籍の価格が跳ね上がるし、プレミアが付くが、しっかり投資して、好きならば徹底的に吸収して、毎日 筮を執って、色々 疑問を持って、考える。そんなことを何年もやっていればピタピタ当てられるようになる。これで自分の筮を信じられるようになる。すると、御神明を得るためには筮儀とその拝見にあるものを信じ切れているかどうかが肝心なんだ、と分かるようになる。 以上、何かの教義みたいに聞こえると宜しくないけれど、これは金言。 |
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たまに大病の方からその行方について一筮を求められる。どんな依頼でも鑑定のやり取りをさせて頂いてそれっきりになることが殆どだが、命に関わる占ではその後どうだったろうか、こちらの見立てに問題がなかったか、何年 経ってもずっと頭にある。 易占には「病占」と言われる分野があって、江戸期の研鑽を経て、明治期の西洋医学が広まりつつある中、一通り読みが確立した。ところが、現代では疾患の種類・分類から昔の比ではないし、それぞれに病因、病状、病勢、治療法・・・。病人の方の現状をよく窺って、その疾患がどういうものかを調べて、資料を総動員して、考え得る見立てをお伝えする。 疾患の読みや判断は厄介。三遍筮法で、病状について 14【火天大有】|||||(← 左を上に。以下 同じ)六五を得て、爻辭の雰囲気にホッとしたものなら、否。これは帰魂卦だが、六五は早晩 命を失う暗示で、重卦の1【乾爲天】||||||が伏している。 また、健康状態を質して 27【山雷頥】||なら、養生が必要とか健康に問題なしとか言っても、LDLコレステロール値が高い人には休養ではなくて適度な運動が必要という判断になるだろう。 38【火澤暌】||||を得たら、誤診とか投薬の間違いを疑う。 これらの上に、医学の基礎知識なしには出来ない。 どう想像しても他の人の苦しみ・切実さは分からない。最も近しい身内でもそうだということ、同じ状況に立ってみない限りは。自分で命に関わる苦しみを経験しない限りは。そういうことがこの歳になってやっと分かった。だから、当然、その分、卦読みに甘さが出る。 |
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易占で、例えば、芸能人がやがて離婚するかどうかを次々に執筮したら、あるところでまるっきり外れるようになって、ブレ出すだろう。こういう白黒を求める占は勝ち負けを求める占と似た性格を帯びる。 何度も書いている通り、勝ち負けの占というのは、サッカーなら占示が試合の展開(延長戦になるとか)や結果に詳細に付合する場合があったと思ったら、まるで現実と噛むところがなかったりする。関心の薄い芸能人の離婚についてなどは占意を欠くので占示がブレる、だけとは言えない。 読みと8割がた外れるというなら、読みと逆を採れば8割がた当たるじゃないかと、それに徹して判断を続けると、そこでもチャランポランに振れて大きく外れる。昔、そういう実験と検証を飽きるほど色々やったが、明らかにそういうメカニズムが働く。易を成す幽妙な摂理は単純無機質なものではなくて、何か擬人的。“易神さま”と呼ばれる由縁。 易は、危難回避を目的とする方向ではよく機能するが、不労利益を得るような方向ではマトモには使えないと言っていい。二・三度 当たって味をしめて続けると、負け越すもの。大儲けして今に至るという話を聞いたことがない。 易占鑑定のように他人に占筮を頼んで、筮者と利益者が異なる場合にはこうとは限らない。それでも、同じ筮者とこれを繰り返していると自分でやっているも同じで、結果も宜しくないようだ。 そもそも、単純に、次にコインの表・裏どちらが出るかを質す占を1万回やったとしたら、同じ卦・爻でも、ある時は白、ある時は黒の結果になる。卦読みは百占百様とはいえ、こういう占事を一卦一爻を得る三遍筮法でやるなら、64卦・384 爻しかないという限界の問題にも出くわす。 不労利得を得るのに自分で使える卜筮もある。これは易とは別の摂理の上に成り立っていると思うが、天漏を致しているので、筮者か占の依頼者が代わりに何かを失うことになりがち。重要な一命を質せば、自分や周囲の命を失うこともあると中国・台湾では言われる。 願掛けでは、例えば、お茶とかタバコとか嗜好品を絶つ。願い事が困難だったり重要なだけ大きな苦痛を長い期間 課すが、以上のことと一脈 通ずる。 中国では古来、天賦の才を得てよく当たる占術師は、貧乏で、病気がちで、子供に恵まれない、と言われる。身を削っている。これが原則。日本では、よく儲けている占い師は、決して腕が好いのではなくて、商才に長けているというだけ。こちらも悲観することはない(笑)。 |
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易占を十数年 研究してきて、最近 気付いたことがある。 ある種のウソ臭い感覚(このウソ臭さは多分 誰でも感じているが、自覚をしていないだけ)がまとわりついている状態で筮を執ると、どう卦・爻を読んでも、現実の結果と合致しない。卦を得ていない、あちらが応じていない。失占する。 昨日も、ある著名な人と連絡が取れるかを一筮すると 26【山天大畜】||||(← 左を上にして見る)初九で、あららと思ったら、即ご返事を頂いた。今日ご返事が来たのですぐ上の九二に取ったとしても、現実には合わない。 易占は卜筮によるもので、よく“易神さま”などと呼んでいるある摂理とのやり取りだが、そのご神明は筮竹やサイコロの上にだけ示されるのではない。ベテランの易者なら言わずとも分かることで、それなりの占なら、占示が宜しいものか否かぐらいは筮竹を握る前から感覚的に明瞭に分かる。 こちらだと、太極として筮竹の束から1本を抜き取る際に束をしならせて選ぶが、その時、眼に留まって揺れる1本の揺れ具合にも常に神妙なものがある。 こんなものも分からないでは、ヨガなどできない。 つまり、そこのところに何かグズグズとしてスッキリしない感覚がある。 ここを考えてみると、逆に、こうした違和感が全くなくて、占示が現実に一寸の狂いもない時がある。卦読みもスッキリゆく。これは、易書を改めて読み込んだり筮法を考察したりして、こちら側の道具がピタッと治まっている時だ。 辞占でやるのか、象中心で読むのか、あるいは、卦・爻の含みの個々の認識までを含めて、こちらの側が整えている道具立ての上に御神明は示される。だから、その占事・占的に対して何でそんな占示なの?と思える人は一番には卦の理解がおかしかったりするものだ。 象、森羅万象を排他的に64に分けて象る卦象の方は卦面が広大すぎてそれ故に我々がその意味合いとしているものは所与のものなのか、あるいは、(ある程度)筮者の認識によるのか、については結論らしいものが出ていない。 そして、何か疑問や曖昧なものが頭の中に広がっていること = 違和感。眠気が射している時も卦はブレる。御神明がどう降りていいのか分からないでいる。 今、不応になっている原因は、おそらく、ある先生の判断本をたっぷり読み込んだところ、「それはおかしくないかな」とそちこち否定と迷いをやっているため。一気に色々と頭に入れるものではない。 |
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以前に、易占でもどういう方面がお得意なのですか、と尋ねられた。 そう言えば、これまで何も書いていなかった。こういうお尋ねは依頼を考えられている立場だったら当然のこと。弁護士でも医者でも伝統工芸師でも、専門分野を持っている。町医者は個人の健康状態を把握してくれている general な掛かり医としては結構だけどれも、special な心臓外科の手術まで任せる人はいない。弁護士も専門事案になれば同様。ただ、弁護士は、その費用や見かけの社会的信用に反して、色々な意味で信頼に足らない人間が目立つのが問題だけれど。 相談内容の範囲ということでは、プロでやっている易者の殆どは“町医者”だろう。「易占」と一言で言っても広いが、キチンとした医学知識を要する病占の分野を殊さらやっている人はいないと思う。 こちらも霊障とか祟りではないかというご相談だと、霊能力は殆どないので、昔の文献の受け売りぐらいしか出来ない。 どんなご相談を頂いているかと言うと、大雑把に、恋愛・結婚・夫婦問題の方面が4割、就職・転進の方面が1割、株・為替動向の関係が1割、経営・事業に関わるものが1割、その他もろもろが3割、といったところか。 そもそも恋愛問題から易占にのめり込んだので、そちらの方面は広く、卦象・爻象の理解のことでも、ケースということでも、こまごましく しつこくやって来た。占法や観象・卦読みの点で恋愛関係の占が何か特別ということでもないので、人事関係(職場人事のことではなくて)専門と言えばそうなる。 人生相談所はなしに、易という機能を使った見通しと対策を提供させて頂いている。そして、絡み合った問題では解決への道筋を整理し、提示した上で、最終的なところでは考えて頂くことになる。 受験生の親御さんから、第一志望のA校の合格発表の前にB校の入学手続きが締め切りとなるが、A校には受かっているだろうか、といったことなど、受験・教育の関係の依頼というのはありそうで滅多にない。だから、世に出ている占例集の類ぐらいは勿論 読み込んでいるけれども、こちらの関係はあまり関心もないので、実占の面では力不足があるだろう。 それから、心配事があっての相談が圧倒的に多い。 逆に、「小さい会社で働いているが、玉の輿に乗るにはどうしたら好いか」とか、「Aという進路とBという進路とどちらが将来モノになるか」といった、現状よりももっと豊かになるためにどうしたら好いか、といった相談は少ない。別におかしい相談ではないけれど。 ただ、「芸能人と結婚するにはどうしたら好いか」の類については、まず知り合いになってからか、何か現実性があった上でのご相談でないと、空しい占示ばかりになる。 ところで、依頼者の年齢で言うと、40代が5割、30代が4割ぐらい。20代以下の世代は易占自体を知らないのだろう。こちらはこのことに危惧がある。新聞に易占相談のチラシを挟んで、公民館やスーパーの一角に住民を集めて、というのはどれぐらいやられているだろう? そして、原発事故の後、ここで国と東電の有り様に怒りまくってからは、女性のお客さんにはトンと敬遠されてしまっている(笑)。 |
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易辞の意味の確認作業をしていて思うこと。 漢学の学者さんたちは易辞の解釈で、この○という漢字は五経の「詩經」ほかの古典とか漢字字典の「説文解字」に「○は△なり」などとあるから、としてその意味を採るのだが、○の字の意味は△だけとは限らない。典拠可能な文献にそれしか見当たらなくて、また、遥かに時代を下った現代の意味に採ってはおかしいから、無難に△の意味を採っている。 或いは、○は◇に通じるとか旁(ツク)るとか、更にそこから、◇は☆だ、と展開することも行われていて、益々 怪しい。自分の色を着けたがるのが困る。 あとは、こじつけもありで、特定の意味合いを有する文意に拵えているに過ぎない。25【天雷无妄】||||(← 左を上に。以下 同じ)六二だと、「菑(シ = 新たに開拓した田)」と「畬(ヨ = 三年めの熟田)」のところなど、色んな趣旨に取られている。さも高尚な意味に仕上げている場合など、無批判にありがってはいけない。 だから、それぞれの爻辭は全文で特定の文意があるものとした場合、3割ぐらいは本当は何を言おうとしたものかよく解らない、というのが事実だ。色々な解釈の良し悪しを検討することしか出来ない。 易辞解釈には、その上、使役に訓み下す問題はあるし、爻辭が、その爻の行為を言ったものか、或いは、30【離爲火】||||上九のように六五よりして賓となるというか、受け身として応爻や比爻からされることを言ったものか、採り方が分かれる問題もある。 こうした根拠の追求は可能な限りやることはやるが、この方向は紀元前の名士のお墓などの中から決定的な発見でもない限りは、お手上げだ。爻辭は爻象の或る面を示したものに過ぎないことは言うまでもなし。 だから、爻象は実占を積み上げて少しづつ確信を得てゆくことになる。 |
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知り合いが以前の占断が変わっているじゃないの、と言うのだけれど、前にも断り書きをしたように、ここの易占の書きものは自分向け、備忘録。 要は、森羅万象を8分した一つの卦、64分した一つの爻にはこんな感じの象がある(形而上のことは誰も何も分からない、易において何が所与のものかも分からない)というところを出来得る限りの考証と実占の積み上げで極めようという作業をやっているので、占例は単にその確認の道具。 夜間に疲れ頭で書いていることが多いので、占断を書いても、あとで何か気が付いたり「違うなぁ」と思ったら、修正も書き足しもやるし、自分が納得ゆくようにやっている。 読みを外したものは自由に理由を考えて貰えれば好いのでそのまま残してあるし(単に想像した部分が外れたものはどうでもいいが、読み筋や象の解釈が違ったものは再考する価値がある)、気が向かずに放置したままのおかしな占断もあるし、実験的な読みの占もある。 勿論、対価を頂く出版物には best を尽くすし、鑑定では資料・データを総動員して占考判断して、時給にしたら 1,000 円になったことなどおそらくない。 出版の方が始まったら、すみませんが、鑑定は基本的に休みとさせて頂きます。 |
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この1年 近く、呑象・燗 嘉右衛門 翁の「増補 燗易斷」に続いて、津波に流されずに済んだ眞勢 中州 創作・松井 羅州 修飾の「漢籍國字解全書 易経」(上・下巻)の卦・各爻の解釈や象義を一字一句 丹念に読みながら、活字にしている。震災以前にも2年近く、時間のある限り、座敷に坐して写経のように、公田 連太郎 翁や仁田 丸久 氏の何巻もある本をまていに[方言]なぞって来た。 こういう crazy な作業をやっている人がいれば合点すると思うが、先哲の間違いを含めて、気付くことが色々ある。本を模写して学んだ時代の人の関心は経・伝の一字一字の使い方にも及んでいただろう。
「漢籍國字解全書 易経」の 52【艮爲山】九三の象義にこうある。 「「限(コシホネ)」は九三 腰の位の象、又、【艮】の象、「列ニ其夤(セシジ)-」は九三 陽剛にして、上下 四陰の間を隔つるの象、「q(アヤウ し)」は九三 人位 危地の象、【坎】を心 病しきとす、心を薫(フス)ぶるの象、又、心も薫ぶるも共に伏卦【離】の象」 これまでの作業で初めて「伏卦」の文字を見付けた。この場合の伏卦とは錯卦のことで、少なくても江戸中期の中州 翁らはこうして使っていた、と。錯卦も爻変して出来る卦もよく「裏卦」と呼ばれる。因みに、互卦は紀元前の「春秋左氏伝」で既に見られる。 戦後、加藤 大岳 氏はなぜ三変筮法で一得爻の陰陽を錯して出来る大成卦もまた「伏卦」と称することにしたものやら。紛らわしいし、この二つの卦は本卦に対して意味するところが異なる。即ち、大成卦の象の裏と爻象の裏と。 大岳 氏の言う伏卦、その時制が、中筮法で云う之卦かこちらが造した來卦(= 本卦が意味するところより前の時制の状態・状況を意味)か、どっちつかずのままだから、今度から「惑卦」とでも呼びましょうか。 ここ最近つらつら考えていること。 本筮法・中筮法では、一爻変だと、A卦とその一爻変によって出来るB卦とは、どちらを得たにせよ、互いに本・之卦の関係として成立する(ことになっている)。それなら、三変筮法の場合でも同じではないかと思うのだが、しばしば事実と合致せず、成り行きに合わない。何故? |
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一筮を執る時のこころ持ちというのは、例えば、頭の中で、実家のあった近所の小さな鹿嶋神社の祠の前に立ち、二礼二拍一礼。古今の悠久・東西の宇宙の中に自分が今あることをありありと自覚する。 感覚的には気の塞がりが宜しくないので、断捨離で、一占 終わったら掃除でもするかとか、不要なものはドンドン捨てるかとか、自分を現実の凝りから解放する「変」をやる。自分の中の気を泰通させるわけで、この“換気”はこちらには重要な筮儀。これは神道で云う穢れ[気枯れ]の祓い。手を洗う癖は禊ぎというわけで、何だか自然にこの形に辿り着いた。 そして、サイコロなら、何かしらの感覚が転じる一点の「転」でこれを振る。だから、筮竹よりサイコロが好い。 「変」・「転」はこちらの概念で、詳細はまたの機会に。 要は、戦前の哲学者の西田 幾多郎の言うところの「純粋経験」に立つ。デカルトの Cogito, ergo sum、つまり、自己を対象[世界]から切り離して客体化してのアプローチでは、純一なるものに近付くことはない。占事・占的と自分が分離した様態では宜しくない。二礼二拍一礼やらは気分の整理に過ぎなくて、拘るのは逆にうるさい。 主客未分。仁田 丸久 氏が、まだ陰陽に未分であるところの太極、混沌と一つになるように筮を執る、のように書き残しているのは実はそういうことなのかも知れない。 「純粋経験」をある西田学者が「道を歩いていて、思いがけなく野辺に咲く花を見、『アッ』と驚きの言葉を発したその瞬間状態」と説明しており、他にも、要は集中状態のように説いているが、自覚的に分かっているのやら。 こちらは、まるで何も持たずに自転車だけ担いで海外に行って、中世の時と変わらないだろう田舎の寂しい道端でたたずむ。今度は、津波で子供の頃からの品々や写真類を津波にキレイに流されて、そこにたたずむ。人々が暮らした町の様相が原発汚染で一変した中で。自分が自分として在るためのものを消失した。すると、絶対状況としてポツンと自己意識のみ存る。親しい人の死を食らえば猶さら。その状況の下で、自己[主]と自己への認知[客]が一つとして在る。翻って、「自分」というこの意識も存立させている万物の根源、絶対神的なものの存在を知覚しないわけにはいかない。その時、意識せる自分もまた風景になる。津波も原発被害もこれに至るがために経験したような。 西田のその先の「自覚」の立場は、自分が死んで永久に消えゆくことの自覚において自分というものの存在が分かる、というもので、こちらのプロセスとよく重なる。亡くして分かる親の恩とか。こちらは“死後の生命”を否定しようがないので、この「自覚」の立場に何とも遠いが。もしこの「自覚」に立とうとするなら、修験道のような荒行をやって、絶対状況に立つことで知覚、ということになる。断崖絶壁から半身を出すなどの荒行とはそれがためだが、儀礼に落ちているだろう。 西田の言うその次の「場所」の立場とは動いて動かざるもので、それまでの頭の整理が要る。 だから、筮儀のことを言うと、筮時、占事・占的についてはその思いに頭までスッポリ浸からないといけない。殊に、自分のことではない依頼占の場合。より確かに依頼者の立場に立つ、と。 絶対神的なものはこの意識以外の「世界」を存立させている、このこともあらためて自覚することになる。 この身体でさえこうしてこの世に産まれ出される。母体から切り離された後も、自分が図って横隔膜を動かし、骨髄で血液を作り、胃腸で消化分解をやっているわけではない。我々は栄養物を摂取したり肉体を鍛えたりして身体を維持するだけで、あとは所詮 生かされている。 ※ 西田はこう説いている。「現在について考うる時、己に現在にあらずというような思想上の現在ではない。意識上の事実としての現在には、いくらかの時間的継続がなければならぬ。即ち意識の焦点がいつでも現在となるのである」「純粋経験の直接にして純粋なる所以は、〜具体的意識の厳密なる統一にあるのである」。 三変筮法でも1分間を要するが、筮時においてはこちらが「時間の帯」と言っている一括りの時間がある。だから、本筮法のようなかなり時間を要するものも可能になる。それは筮者側の集中に関わるが、それとは別に、占事・占的に応じて天数が顕現するまことに不思議な仕組みがある。 “絶対神的なもの”はどこにどう存在するか? おそらくこの宇宙の森羅万象に遍在するだろう。地球の表面に生きた経験だけで言うのも愚かだけれど。 “絶対神的なもの”が最も発現した人間によってより知覚される。そうして、“絶対神的なもの”(の機能)と最高質に酬酢することで、ヨーロッパの西の外れの屋根裏部屋にいても我々は正卦を得られる。 神我一身、梵我一如をもって我々は卦を得る。 |
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オリンピックの第1回アテネ大会(1896)では1位に銀メダル、2位に銅メダルが授与された。3位には何もなし。4年後の第2回パリ大会になって陸上競技で金・銀・銅(青銅)メダルが設けられて、今に続く、と。 地球の表層では銅 → 銀 → 金の順で天然での存在比が小さい。錆びない順もこうらしい。 元素の周期表を見ると、29番Cu(金)、47番Ag(銀)、79番Au(銅)が縦に一列になっていて、これは偶然かな? さて、ロンドン五輪で男子体操総合の金メダルを狙う内村 航平 選手が前回の北京五輪で銀メダルに終わった時、彼の母親が「『銀』という字は金より良いって書くのよ」と言ったそうな:テレビCMより。 易者のこちらならどう言うか・・・ 「銀」の字を卦にしてみると、銀のツクリは「良」ではなく「艮(ゴン)」だ。そして、このヘンの金(五行の木・火・土・金・水の金)を八卦に当てると、【乾】か【兌】になる。左は外卦、右は内卦。 そこで、金を【乾】とすれば、大成卦は 33【天山遯】||||となる。即ち、ああ、オリンピックで金メダルを逃してしまった、これにて金争奪戦から遁します、と。 他方、金を【兌】とすれば、31【澤山咸】|||となる。即ち、発奮して更に上の金メダルを目指すぞ、と。 つまり、「あなたはどっちなの?」と問うことになる。 こちらは【天山遯】のままにしていることが3つばかりあるが、【澤山咸】は時を待っていてもやって来ない。汚染・被曝に人生の貴重な時間を費やしていられない。起動。 |
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最近、ここで易占の卦読みばかりやっているが、自分の読みの確認をやっているだけのこと。独り言です。 こうやって公開しているとハジをかきたくないと思うから、真剣に考える。それでもまだお気楽なので、鑑定の占のように、いつも筮や読みに気が入っているとは言えないけども。 鑑定の占の時には、責任があるから、真剣を握る時のように鋭くて充実した気が沸々と漲って来る。それをグッと束ねる。高いところに定まる。他の人の占だと、どんな占示であって欲しい、などというものがないから、筮がキレイだ。 気力が弱いと筮は宜しくない。呑象・燗 嘉右衛門 翁も、体調が勝れない時には、筮だけは門人に執らせたことが「増補 燗易斷」に書いてある。だから、拝見していても、歳をとると どうも卦を得なくなりがち。 他方、自分についての占では、占示の吉凶ぐらいは筮竹を割る前から分かることが多い。以前「運を育てる」で[肯定的な感覚]・[否定的な感覚]と書いたが、そういう何か明るいもの・暗いものに包まれながら筮を執ることになる。 だから、好からぬ感じが払えない時には止めるに如かずだが、占示の良い悪いが筮前に分かるということは運の招来があるわけだから、すると、欲とか悲観のようなものが筮に影響していないかな、筮が濁っていないかな、という疑いになって来る。気線を変えないといけない。 そういう妙なこともここでは書き留めて置く、と。 当てものばかり書いているのは、自分の読みの確認であることは勿論だけど、「易占は当たらない」と言う人が結構いるのですね。挫折組が多いと思う。しかし、そんな当たりもしないものにあれやこれやと犠牲にして十何年も没入する人はいない。だから、そこは当てものが好いのですね。 そもそもは易の深いところの構造とかその先の靈學が面白くて、占示については汲み取るものがあれば好いぐらいに思っていたが、その易の構造というのも筮法・観法なりがちゃんと実用なって、つまり、正確に当てられてナンボ、ということになった。
遠距離で好きな人がいて、その成り行きを一筮すると、【水雷屯】上爻を得た、と。 厄介な四難卦だし、この爻辭は別れの意味だし、どの本を見たって大凶のように書いてある。もう彼女とも終わったと思った。ところが、順調に運んで結婚できた! 易なんか当てにならん! と言うのですね。 よく話を聴いてみると、その人はちょっと実家の事情があって、なかなか彼女に会いに行けなかった。実家を離れづらい状況が理由で悩んでいたわけです。 それなら、後ろ髪を引かれる気持ちで彼女のもとへ通うというのが「班如」のバラバラになる様、「泣血漣如」の血の涙が止まらない様、と取るのがどうも正解らしい(以上が辞占での卦合わせ)。 そして、この卦の一番上の陰爻陰位の上爻には、【屯】難の困厄が尽きて、やっと福運に赴かんとする意味合いがある。それは爻辭からは読めないけど、難卦は大体そう。判断は占の性格による。 こういう人は多いのだ。周易は自分の占にそこそこ確信が持てるようになるまでにどうしてもあれこれ回り道をすることになるので、脱落して仕舞う。今、amazon.com で「易占」を検索して出て来る本を見ても、どれも似たような初歩のハウツー本で、この限りだとさすがに挫折するだろう。 それと、加藤 大岳 氏の有名な「易學大講座」を含めて、判断書に頼ると、その判断というのは即時占的に相場的なものなので、問筮者の個々の状況を踏まえたものにはなっていない。占事・占的と卦・爻とを重ねる重要なプロセス、卦合わせのこと以降のことがしっかり書かれていない。卦読みとはそこが重要なわけで、だから、「易占は当たらない」となって仕舞う。 この加藤 氏など一生を懸けて易占に関わる色んな不明を一つ一つ潰して行った功労者だが、皮肉なことに、「易學大講座」を読むと、初学者はますます判断が分からなくなる。30代で、試行錯誤の中で書いたもの。 易占を確かなものにするには、logical な勉強なりが一通り済んだら、好い占例をたくさんこなすこと。それから、商売としてやるなら、誰もが苦手な射覆(セキフ = 幕などで覆い隠した物を筮をもって当てる)をみっちりやる。狭い読みは宜しくないから、世事によく通じる。などなど、時間が要るのです。お金もいっぱい掛かる。 実感を言うと、易の本来の役割というのは(ちょっと目的論的かな)、迷蒙の状態にある人に方途を示す、叱咤・警句を与える、おそらくそういうものなのだろうと思う。例えば、江戸末期の「幸安仙界物語[幽界物語]」で清浄気玉利仙君という神仙がこんなことを言っている: 「八卦は未然を問ふ術にあらず、過去の事に引き当て、善悪応報の理を愚人に諭さんがために、神聖人が作りおかれし道なり。未然の吉凶を占ふには、諸神仙霊に祈りて御諭を得るか、夢の告を蒙るか、又 物に験を賜るか、鐵火を握り、熱湯を探る類(= 盟神探湯)また夜中に城隍神(= 産土神)に祈念して、眼をとぢ耳をすまして、神語を聞き奉るなどよろしきと被申越候」 「神仙って何よ?」なんて申されるな。易自体が成立から構造から卜筮から、神懸かりなのだから。古代中華の伏羲(フッキ)という名の、日本の復古神道では大物主命(= 大国主命の和魂とか)ということになっている“易神”さまがこの摩訶不思議なシステムを作ったことになっている。辞などは歴史の中で人の手で弄られて現在に至る、と。 で、当たる、というのはその易のシステム上 付いて来る機能。 前置きが長くなったが、例えば、年筮で 18【山風蠱】|||(← 左を上にして見る)四爻を得たとする。 これは要するに、やるべきをやらず、家産を喰い潰し、呑気にグズグズ構えている様を戒めている。失敗したとあとで泣くことになるよ、と。だから、このことを警句として忘れずに、キチンと腰を上げて、やるべきことに取り組んだら、この卦・爻の云うところの敗れの結果にはならないだろう。 それが江戸後期の吉川 祐三 翁の言う「当たるも八卦、当たらぬも八卦」に繋がる。爻辭にはそうした二つの道がそのまま読めるものが多いこともこの役割説を裏付けているものと思う。勿論、人の命数に関わることなどはこうはいかないし、易 = change にも限りがある。 おそらく、初めに八卦の符号ありき。後年、これを易と名付けたのは歴史の彼方のことで誰やら知らないが、その意味するところを掘り下げると、一つはこの辺りに行き当たる。もう一つや二つは靈學の玄妙な世界に関わって来て、これはまた違ったセンスが要る。こちらはここがクイッと切り開けない・・・。 ともかく、凶占は天の恵みなり。吉占を得た人のグズグズに如かず。こちらも来年は始動。 |
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最近の事情はよく知らないが、こちらが遠い大学の頃には、街占で一筮やって貰うと、20分ほど、見料は 2,000 円以上だった。見料は、同じ易者さんでも、時や相手によって変わった。 鑑定の依頼をお考えの人は、法律相談の場合も同じだが、抱えている問題・悩みを自分の中でよく整理して、何を相談すれば好いのか、何を知りたいのか、絞ること。そうではなくて、街角で小机に筮竹を立てた易者を見掛けて(最近はないか)、思い付いて相談すると、失敗しがち。
だけど、家に帰っても、諦められない。一年なんて長い。それじゃ、告白はやめて、自然に接していたらどうかな、好い感じになるかな、と考えて、また相談しに行くことになる。また見料を払う。この相談だと先の【天山遯】を観ることになるだろうが、結論は変わらない。卦の意味するところをもうちょっと噛み砕いて説明されたり、【大巽】だか ら“物事 果たさず” で、「ん〜、相手は気がないかも知れませんねぇ」とか。気の利いた易者なら、内卦を逆さまにしても[顛倒生卦]、25【天雷无妄】||||(← 左を上に。以下 同じ)だから、「相手には告白とか余計なことはしない方が好いですねぇ。却ってチャンスが気まずくなりそうだから」と説かれるかも知れない。相手に彼女がいるかは応爻の比爻を観るか、追加料金で別に一筮 立てることになる。 以上はまだマシな方かも知れない。 まともな易占鑑定が20分ぽっちで出来るわけがない。上の鑑定内容は、顛倒生卦のところを除けば、即時占、おみくじ占と変わらないから、それなら判断本でも買った方が好い(尤も、人の悩み・問題は百態百様であり、判断本の内容は相場的なものだから、しばしば問いと合わない)。 占業者というか専業者は数千円/数十分で回していかないとやって行けないのだが、逆に言うと、マトモな易占鑑定は現状では商売としては成立しないのだ。 「マトモな易占鑑定」というのは、要は、筮と占考にそれなりに意を尽くすことであり、依頼者の迷蒙の状態を少しでも開くこと。依頼者に元気や好い気分を提供するのも大切なことだろうが、それが目的化するのは違うだろう。 だから、数分ばかり話を聞いただけで仕事が出来るわけがないし、何筮なのか知らないが、爻を執らないなど論外。こちらも何かにと4・5時間は費やしている。土・日まで待って貰って、終日 調べたり考えたりすることもある。
それは確かにその通り。易占も動物占いと変わらないような世の認識になったことが問題で、その原因は易占を「安かろう、悪かろう」にしたこと。これは江戸の昔からそうなのだが、つまり、速成の易者が多いし、占の確度が低い。見料を市場原理に任せるのみで安価にした。だから、鑑定の内容も大切にされることがない。「占いなんてそんなものだろ」になった。現代に至っては、占業者も依頼者も易占をただの “ビタミン剤” にして仕舞っている。 これには、30年ほど前、現在のインチキ占い大繁殖の元になった「血液型占い」をやった大熊 茅楊 女史らにも責任がある。それに、いかにも立派な風体、居住まいで客を取り、さっぱり鑑定の中味がない大家モドキもいる。正月なら、左右のホッペに筆で「ア」「ホ」と書いてあげたい。 勿論、易占自体に誤占は付いて回る。筮者[易者]側の問題では、“易神” さまからの好かれ具合に確かに個人差がある。卦を読む力の問題は勿論。また、問筮者[依頼者]側のことでは、ちゃんと重要な点を伝えて貰わないと、おカド違いの読み筋になってしまう。 だが、心魂を澄まして筮を執り行い、易理や先哲の遺産を動員して占考をやり、キチンと説明のつく正当な仕事内容に対して相応の対価が求められるのは当前のことで、そうして、相場の向上を皆で確立すべきだ、ということ。腕が劣れば、頼る人もいなくなる。 そこで、こちらのようなのはダンピング[不当廉売]行為と見られて仕舞う。 その言いはそれで分かるが、それにはちょっともの申すことになる。 まず、易占が本来の名実を失っている現状がある、ということ。呑象・燗 嘉右衛門 翁のクラスとは言わないが、それなりに腕の立つ人物が東洋の卜の “正中” である易占の真価を今の世に復興しない限り、易占は社会の必要材としてハッキリ認識されないままだろうし、鑑定の相場は上がりそうにない。上げられない。個人で高額の見料でおやりになられているのはそれは結構なこと。 そして、斯界がメディアを使うなどして世の中に対してしっかり腰を上げていない、ということ。占術の世界には、見料10万円で、話を墓のことに持って行って墓地作りに 1,000 万円!もむしり取っている○木 和子のような連中がいる(こんなのは占術家でも何でもない。詐欺師)。こういう輩と拝金メディアが世間の占術への信頼を落としているわけだが、翻ってみれば、それほど世に人の悩みは尽きず、易占の需要自体はあるのに、腕に覚えのある皆さんは何をやっているんだ、と言うことになる。 世の人々にももの申す。 そもそも易占がサイエンスや因果律では説明のつかない玄妙な卜筮であって、その上、これに筮者・問筮者が絡む以上、易占に百占百中は求め得ないんだ、ということ。易占ほど将来や不可知の事柄を知り得る占術はそうないが、易者は、筮に卦読みに、善を尽くすことしか出来ない。 それと、こうした要求はちょっと世間的バランスを欠いているだろう。他の産業と比べてみれば分かることで、競馬・競輪なら、当選確率を見たら好い。「ハズレたって競馬は娯楽だよ」と言うなら、易占もその面で押し切れないこともない。易占の真っ当な鑑定は知的労働の上にあって、人に希望や力、方途や警戒を提供もする。 それから、医者がどれだけ誤診をやっているか。昔、東大医学部教授で、虎の門病院の院長を務め、文化勲章を受けた冲中 重雄 先生は東大での最終講義で生涯の誤診率を14.2%と告白すると、一般人は誤診率の高さに驚いたが、一般医はそんなに低いのかと驚いた。誰しも3割は診断に誤りがあり、人を死に至らしめている、ということ。こちらも身内で何人か経験している。 自動車産業も然り。モノ[クルマ]と利便は提供するが、他方で毎年 膨大な死傷者と公害を作っている。 功罪を言えば、よく研かれた易占に何ほどの罪があるか。ヤブやインチキはどの分野にも存在する。 あるいは、「科学でないから認められない」というなら、ありがたがられている非科学は世にたくさんある。 会社だと、ビルを建てる際から恭しく地鎮祭をやり、玉串料の出費をするが、それこそ目に見える対価など何もない。神主は易者ほどの験力験能も示せない。法的には気分的な安心感だけだが、これを背任にする人はいないだろう。 周易・易占とは、弁護士が言いたがる「娯楽」なんぞではなくて、人類規模の「文化遺産」と言ってよい。これを激動の明治の世に全国に実証して見せた呑象・燗 嘉右衛門 翁とその著「増補 燗易斷」は正しく国の宝。 畢竟、易占への信頼の問題は、易者からすると誠意や腕の問題であり、依頼者からすると易者選びの問題に帰することになる。 |
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明治時代の“易聖”呑象・燗 嘉右衛門 翁の畢生の大著「増補 燗易斷」(旧字旧仮名遣い)をこの8月にやっと読み終えた。実は、仕事を放っぽり睡眠も削って、2年掛かりの突貫作業でもって、この 600 以上の占例を逐語訳の現代語に改め(占題としては四百数十。明治19年の初版の占例を多少 残す)、卦・爻別に整理し、個人用に註釈や解説を加え、必要なリンク張りをする。また、384 爻の占= 一般判断を旧仮名遣いのまま文字データとして起こす。などということをやった(以上、未アップ)。どの卦・爻の占で変を見ているか、どの卦・爻の占で爻位を取っているか、なども調べ上げて類別した。64卦等についてはこれから。 現在の横浜市の繁栄の基礎を作った大実業家・政商としての彼の伝記は数々あっても、彼の易占の“形”をキチンと分析した研究は見掛けない。易占修行には最も役に立つ資料の一つだが、強く認識されることが少ないのが惜しまれる。先哲の占例の洗い出しはここ数年来の“仕事”。 さて、この長大な占例の中で、呑象 翁が易を学ぶ過程の風景が垣間見られるところがある。それが【風雷Y】三爻にある占例で、その内 書こうと思ったら、官房長官 仙谷 由人の進退の占で丁度これを得たので、好いタイミング。
【風雷Y】は百事増Yするの象。病においてもまた然りで、「Yレ之用二凶事一」は意外の凶事を増すことがあろう、と。そして、今、これを免れる策はないが、翌日は次の四爻に当たり、そこに「利二用遷一レ國」の辞があるので、ともかく、居所を転じるべしと考えて、翌朝、周囲の反対を振り切ってそこを出、小樽から汽船に乗って函館へ移ったのである(【震】雷は東、【巽】風は東南により、得卦で移動する方向を決めたのではないようだ)。 すると、昨夜、札幌市内に大きな火災があって、火元に近いさっきの旅館がたちまち類焼した、と札幌本社より電報が届いたのである。同地の新聞等は呑象 翁が火災を予知して同地を去ったなどと喧伝していた。 そこで、呑象 翁は卦を見直して考えるに(こんなシーンさえ殆ど見掛けない)、筮時には変卦が火となるのを感じたぐらいだったが(つまり、三爻を変じて【風火家人】、その内卦【離】のこと。高熱)、今後は【風雷Y】三爻を得れば、あるいは火災があると断言することも出来ると考えた、というのである。 翁は続けて、「夫(ソ)れ易の辞は、簡にして能く万変に通ず。故に活断 百中一の誤謬なきに至らんことは、数年 斯道(コノミチ)を研究したる後に非ざれば、能(アタ)はざるなり。孔夫子も「加二我数年一、五十以学レ易可三以無二大過一矣」と曰へり。言ふこころは未だ経験の足らざるを以て、小過あるは免るべからざるとの義なり。凡(オヨ)そ易は之を学び得るの後、屡々 事物に当たりて切磋琢磨の功を積み、初めて天命の忒(タガ)はざるに驚歎するなり。「論語」に「学而時習レ之。不二亦説一乎」と曰ふ、習の字、宜しく玩味すべし」と。 呑象 翁は、子供の頃に漢学としての易経に親しんでおり、幕末の動乱期にワケあって御伝馬町の監獄に入れられた際、安政の大獄で捕まった水戸浪士が残したものなのか、「易経」上下二巻を手に入れて、佃島監獄を含めて、獄中6年余の間に易占を学んだ、ということになっている。その「易経」とは、江戸後期の眞勢 中州 翁の解説の入った「周易釋詁」でもあったなら なるほどだが、何だったかはよく分からない。 そこで、呑象 翁は牢獄の官吏の近い出世を言い当てることで自身の出獄も早めさせたほどの才覚なので(「増補 燗易斷」の【水天需】三爻 他の占にある)、故・仁田 丸久 氏は、呑象 翁は入獄の前には占筮としての易を身に付けていたし、何か“裏街道”をやっていただろう、と推測している。 実際、「増補 燗易斷」を隅まで読み終えてみて、(書とするのに筆の整えはあるにせよ)呑象 翁の頭脳は尋常ではない。それでも、上に書いた病時の占の様子など、当時キャリア30年のこんな名人でも、皆と何ら変わらず経験を通してコツコツと技量を上げている様子が判る。修業時代には、判断を誤まって恥を晒しもしただろうし、不慣れな方面を頼まれて途方に暮れもしただろう。上のブルーの文に翁の易占修行の道程を見る。そこは誰でも同じなのだ。 しかし、「先生」と言われる人達は、権威を装って、ご自身の失敗を容易に晒さないから困る。お手前のほどが判らない。占例集でも、占の最初から確として断を下したような書きっぷりが多いが、そんな筈はない。たった一つの卦・爻にも象・辭・變・占その他の膨大な情報が関わるわけで、それを占事の上に重ねて的確な答えを紡ぎ出そうとするならば、時間が要る。理想を言えば、ヒラメキのための無為な時間も必要だ。 現代も、易者は医者以上にピンキリ。見識・発想ともに豊かな先生がいらっしゃるかと思えば、「〜会長」のような立派な肩書きだけでお話にならない腕の人が退屈な本を出していたりする。 そのキリも、不運の原因にご先祖の因縁を持ち出すようなのは霊感商法の類と思って大体 間違いない。鑑定の後に「祈祷が必要ですね」とか何とか。 また、現在 全国にある燗易断○○本部とか○○館とかの一切は明治期の呑象・燗 嘉右衛門 翁とは関係がない。呑象 翁のお弟子の小玉 卯太郎 氏は「呑象」の易号を黙認されたのみ。その他は占業者が勝手に「意志を引き継いで」、「○代目」と称したり「燗易断」と名乗っているだけのことで、昔からご子息が迷惑をされている。知る限り、易の中味の点でも呑象 翁の法灯を受け継いでいない。 昔、こそっと“道場破り”をやった時にも、総じて筮法から判断根拠までボヤケテイルし、そもそも中味が薄い。依頼客の抱える問題の芯の部分にタッチする意欲がない。5,000 円で20〜30分 足らずで、これでは人生相談にもならない。思わず疑問攻めでやっつけてしまった(笑)。 素人の方は“ジャケット買い”をしてはいけない。 |
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「当たるも八卦、当たらぬも八卦」とは、「当たるも否も八卦次第(神さま次第)」であるとか、あるいは、明治時代の呑象・燗 嘉右衛門 登場の後、全国に雨後の竹の子と現れた自称「燗易断」を始めとする易者の占のいい加減さを冷やかした言葉、として使われている。もう呑象 翁の頃からこういう使い方になっていたようだ。 占が当たらなかった時、人は「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と仕方なく呟く・・・。 ところが、この言葉、元々はそんな意味ではない。 易を観てもらいに来る人というのは、多くが御難のさ中にあって、しかも、どうもダメっぽいから「何とかならんですか」という場合が多いわけであり、筮の結果も当然のことながら宜しくないことが多い。しかし、易者が「残念ながら、その件は凶ですよ。諦めなさい」の“診断”だけで金銭を頂くというのは如何か。その凶運を何とか避けるべく、あるいは、軽減すべく、あるいは、先の好転に備えるべく“治療”に務めるのが易道。 易の天・地・人の三才の内、天事は人知人力ではどうしようもなく、地事、即ち、天事・人事以外のこの世の一切も人為が拡大したとはいえ、全体の一部だ。 地事も住所を変えるとか人為が利くのは一部だ(人工的に雨を降らせたり、地震を起こせる時代になって、人事は拡大の一途だが)。ところが、残すところの人事は人の業であって、人の努め方 次第で未来に変更の余地を残す。所謂「運命」とはそこに係ってくる。爻辭にも、然れどもこうすれば吉、ああすれば凶、と人為が示されていことが多い。 この「人事」とは、例えば、受験の一年前に東大に受かると易示されたとして、「それならもう勉強しなくてもいいや」と遊び呆けたら、暗記したものも吉運も去って行くし、あるいは、受験自体をしなかったら、合格する筈がない。逆に、合格は覚束ないと易示されたとしても、本来 能力があるならば、例えばだが、やり方を見直して頑張ったら能力のグラフが更に上向きになって、実際に合格も見えて来るだろう。そういう人為を言う。人事の可否には前提のことが関わる(こういう構造のことも書かない運命学書がいかに多いか)。 つまり、凶と示されても、そこに陥らないように易者はよく教え諭して、他方、求筮者はそのことをよく理解して努めて、その結果として、凶運を免れたとしたら、当初に示された卦は当たらなかったことになる。運命にはそうした可能性があることを忘れてはいけない。 即ち、「当たるも八卦」とは、凶(あるいは吉)と示された卦[占]が現実に照らして当たっていることで、「当たらぬも八卦」とは、その状況に対して努めた(努めなかった)ことにより結局は当たらなかったことになる、そのことを言う。
人為による可能性を説いたこの言葉は、江戸後期に吉川 祐三という易の大家が言ったと伝えられている。 近く易が改めて見直される時、この言葉もテレビのクイズ番組で再び日の目を見ることでしょう。 |
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山形県 天童市の将棋駒の老舗の工房に彫り・塗りを注文している易占用の八卦サイコロと六爻サイコロ。転がしたら下地の塗りが剥げたのでやり直しているとのことで、まだ出来あがらない。最初に「全然 急いでいませんから」とは言ったものの、4ヵ月(笑)。あんまり長いと興味が薄らぐもので・・・。
これは卦木・算卦(ケサン)とも言って、神示された八卦をその場で記録したり、そうして出来た大成卦の爻を弄って占考を錬るための道具。 記録用としては、初爻から上へ、一爻一爻 示された八卦を積み上げると大成卦が出来あがる。本筮法で一変ごとに使うなら6組も要るが。三変筮法なら、算木2本と六面サイコロ1つあればいい。 また、占考用としては、例えば、陰陽・八卦を裏返したりして、生卦・基準卦などを錬るのに使う。 算木は必要かと言うと、こちらは専ら三変筮法で、中筮法でもその都度 紙にメモ書きするか記録用のパソコンのファイルに書くかしているし、生卦にしても使ったことがない。 揲筮で使うのは筮竹と筮筒。筮中に一時 筮竹を置いておく卦扐器[筮架]もミゾの数の異なるものを二つ持っているが、仕舞ったままに。ただ、神の依り代である所謂 太極を立てる筮筒の下には小さい飾り畳を敷いている。28【澤風大過】初爻の辞にある「白茅」である。 では、何故 算木かと言えば、これは揲筮の最中に使うわけで、御神明を頂戴する筮儀には玄妙なる厳(オゴソ)かさが必要であると今更ながらに悟ったことがある。一爻一爻こころ静かに卦を組み上げていく過程が欲しい。ちっこいサイコロでお気楽に“易神”さまを呼びつけるなど以ての外。太古の昔、卜を執り行うには、時と場所を選び、わざわざ祭壇を設え、斎戒沐浴して行ったのだ。現代でもそうした恭敬さが必要であることに変わりはない。 もちろん、算木を使えば筮中から大成卦が否応なく想像できてしまうので、それは結果に影響なしとは言えないから、そこは考えないようにする。
デザイン。この形の算木を調べてみると、八卦の配置や文字の上下の向き、模様付けなど、まちまちなことが分かる。八卦の画象も知らないで作っているいい加減なものも割とある。大きさは長さはが10cmもあれば十分。 して、この体裁の算木なら市販で5万円なんて値が付けられていたりするが、こうして作れば、この後の彫り・塗りと送料を合わせて1万円程で上がる。もっとも、気に入るように仕上げるには当然 手間ヒマは。本黒檀にしても、焦げ茶色などの縞のほとんど混じらないドイツ産などの真黒を使えばもっと要するが、プラスチックみたいに無機質に見えて面白くない。 算木というものはどれ位前からあるものやら。中国でも卦の記録に何か使ってはいたと思う。算盤が発明される前に広くアジアで使われていたらしい計算用の算木というものもある。 成形した木材が届いたので、サイコロの時と同じ、山形県 天童市の将棋駒の工房に手彫りでの八卦の文字彫り、金・赤の墨入れ、ラッカー塗装までを発注。 堅い黒檀が手彫りできるか・・・で少しやり取りがあったが、印鑑などに使う真黒ではないし、何とかなるでしょう。 |
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月刊の「易学研究」は易占の世界では最も知られた専門誌(冊子)で、購読していたが、この12月号をもって休刊するとのこと。
確かに、研究と言いながら先哲の到達点を更に前に進めるような新しい内容を見かけることはなくなったし、戦後 隆盛を極めていた当時の論文・資料の再掲載が目立っていた。 他方、燗易断関係団体は卦に因縁なるものを結び付けて高額な印鑑だ祈祷だと霊感商法をやり、全国で問題になっている。こんな犯罪集団と同じに見られていたら易学は衰退する。この世界の先行きに危惧を覚える。 周易の専門誌はというと、日本易学協会の季刊の「鼎」、横井 伯典 氏の値の張る「履 苑」ぐらいしかないかな。 |
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筮竹はメドハギ[筮萩・蓍萩]に由来するという。国内でも田舎ならよく目にする草で、茎がスッと真っすぐで硬いので、枝葉を取ってヒゴにして使ったようだ。
ともかく、筮者 ←→“易神”←→ 筮具[筮竹・サイコロなど]の間がブレなく噛み合っていないことには、その先の占断には意味がない。筮儀には経験と工夫で全霊を傾けても、たまに何とも読めないと やっぱり“易神”さまと〜と思うから、得卦のことについては、筮者のメンタル面の要素を除けば、神機[占機]の問題に行き着くことになる。 だけど、サイコロと言ってもあのちっこいのに全てを託すのは如何にも心許ない。あっちこっちに弾いて偶然のように止まる様子に、「こちらや“易神”さまと繋がっているのかいな・・・」と思ってしまう。どうにも趣もない。
まず宮崎県の製材所(樫の木ランド)に注文して、国内では最も堅いらしい木刀用の赤樫の角材を切り出し。直径に比べて長さがあり過ぎると転がりが悪そうなので、特大の長さにしたい誘惑を押さえた。それで、週末、家でグラインダーと紙ヤスリでせっせと角取りと磨きをやり(肩を壊し)、昨日 山形県 天童市の将棋の駒や盤を製作している老舗の工房に仕上げをお願いした。手彫りでの八卦の文字彫り、黒・赤の墨入れ、ラッカー塗装まで、何ヵ月かかってもいいので、と。工芸品のようなものが出来るやら。 その工房でもそんな依頼は初めてとのこと。それは当然で、柱状のサイコロ自体、易関係の専門店でもネットでもめったにお目に掛かれない。中国か修験道の由来だと思う。 で、これは、中筮法なら八卦サイコロ6本を束にして両手で持って、爻の上下が判るように、床にゴロゴロゴロ〜と転がす。無理なら、左手に外卦用3本、右手に内卦用3本かな。三変筮法なら八卦サイコロ2本に六爻サイコロ1本。ちょっと趣があるだろう。 勿論、6面サイコロだって均等に面が出るわけでないから、更に精度が怪しい多面体でどうなんだの疑問はある。が、八卦サイコロは6つ作って、任意に使うので、クセのあるサイコロだって選択された時点で神意が働いている筈。 次は易占に使う算木(サンギ)を作ろうと、色々なモデルを研究中。これ、黒檀製になると、市販で数万円もする。 |
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一年前に「占事一心」と題して、私の場合には御神明を得るにはこんなことが必要だ、ということを書いてみた。 以来、明らかに卦を得て、且つ、的占したと思われる場合、筮儀がどんな様態だったか、ということを少し意識して来た。“易神”さまが応じたと確言できる占があり、どうもそうは思えない占も幾らかある。怪しげな卦に四苦八苦していられないので、確実に卦を得ることは手始め。 卜筮とは神霊現象。その対象は後記。必要不可欠は、あちらとの感合。易者とは神主に似たり。 ●「占事一心」に書いたが、私がまず始めることは、目の前に据えた所謂 太極の先端に対して眉間のキューンというかウンウンというかその引き締まる感じをしっかり錬ること。私の筮にはこれが不可欠で、これがハッキリ唸っている内は、竹を割るたびに頭が他へ行ってまた戻って来ても、結果的には問題ない。 これは、卦を得んと、全幅の気力を奮うことと一つ。あちらと咸応するにはそれなりの集中と迫力が要り、息を絞り、止め・・・結局、この様態に行き当たる。立筮中は明鏡止水というよりは占事の解氷に一心になることで、呑象・燗 嘉右衛門 翁のそれとよく通底する。呑象 翁は立筮に入ると、その気が一堂に満ちたと伝えられている。とてもボケッとしてやっては卦を得ない。勿論、眠気がある時には筮を執らない。お歳をめされた方が卦を得なくなるというのは、気力と無関係ではないだろうと思う。 また、これには居住まいを正すから、それまでの気分を払うことになる。仕事に出かけようとメガネを掛けるとそれ用に自分が変わることと通じる。スイッチを入れるのだ。お香を焚くのは謂わばこれがため。 そのことで言うと、筮竹を割る際に親指の爪が筮竹に引っ掛かる場合。 この時、「これは卦を得ないんではないかな」などと気になるなら、一からやり直すことだ。 ただ、私はそうはしない。「これは何か宜しくないんではないかな」と頭の中で振ってみて(自然に振っている)、殆どは“否定的な、嫌な感触”がないので、あちらと応じているだろうことが判るからだ。引っ掛かった筮竹をそのまま地策に入れて、続ける。この「正の感覚・負の感覚」はそれと自覚できていないだけで、誰にでもある筈だ。 ●占事を自分のものにするということ。しっかり自分の真ん中に据える。 自身の重大・切迫した事柄で筮竹を握る時は、否が応でもそのことが頭を占めているから、この問題はない。実際に自分の問題であるし。 そう関心も高くないフットボールの試合の行方を問うような場合にこのことが必要になる。質すことに思いを巡らせて、ノラネコを自分の猫として可愛がるように、それを一瞬にして自分のものに涵養しなければならない。更に言うなら、先の「正の感覚・負の感覚」で、頭の中で振ってみた時に、“前向きな、それでよしという、何か充実した満腹感”が欲しい。比較占で、自分の関心のある候補の対抗馬について質す場合、あるいは、二占・三占と続ける場合、どうしても以上のことが疎かになっておかしな結果を見てしまう。やっていて、“何か上滑りしているような、嘘くさい感覚”が自分で判る。だから、どうしても占事を肺腑に落とせないようなら、筮竹を置く。アマノジャクだから、宜しくない卦が出そうだったらそのまま続けたりするんだが(笑)。 この「正の感覚」をまとうことは、こと筮時に限らず、物事を為そう、成功させようとする時にキーになる。何かを為そうとする場合、「もう成功したと頭から思って物事にかかる、かかれると好い」というが、それを意識に起こして説明するとこうなるだろう。つまり、「運」というものの本質とイコール。私の今時の重要なテーマ。更に言うと、この場合の「正の感覚」は目的指向的に少し具体的であれば好い筈だ。 ●そして、“易神”さまのこと。自分の中でそれをしっかり向こうに据えて質すということ。 “易神”とは何者であるか。こちらは揲筮の際には「古今の悠久、東西の宇宙におわす、森羅万象を司る神霊に質す」のようにそれを描いていて、“易神”さまを宇宙の万物を為す天地自然の理であり力に見ている。我々は「しんかい 6500」に乗ってマリアナ海溝に潜っても、「ボイジャー」の搭乗員になって太陽系の彼方に行っても、多分 卦を得るという現象を経験する筈だ。ということは、“易神”さまは不偏に宿り、森羅万象をわきまえ、時間も次元も超えて存在する。遠い未来についての占などは我々は状況も知れぬから読みに窮するだけで。 「森羅万象を司る神霊に質す」のだから、この卜筮もこちら自体も一切の主宰神による摂理に含まれる。その感覚を頭から纏うのも占機に入る一つだ。 宗教哲学のルドルフ=オットー[GER]が著書「聖なるもの」に書くヌミノーゼ(= 神に触れようとした時の善だけではない得体の知れない感触、神体感)が毎回あるなら素晴らしい。
ともかく、“神霊”をしっかり向こうに据えて掛かることが肝要。「問筮の辞」にせよ、ただこれを唱えて、頭はうわの空でいいわけはない。 そして、揲筮が終わったら、感謝の意を捧げる。 蛇足、筮具のこと。高価な筮竹はいらない。李朝白磁で立ち飲み出来る人は別だが、「毎日 使って漆が剥げないか」と神経を使うなら、それだけあちらとの感合が濁る。筮竹は折れてもいい、気軽に使えるものが最良。 一瞬に卦・爻を得るのが最上と言うなら、サイコロを使うことだ。 こんなことをこの一年であらためて確認した。 仁田 丸久 氏 曰く、「易をやるときには絶えず、神様を身近にまざまざと感じられるようでなくてはいけません」 |
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たまに「あなたはどうして当たるのか」と聞かれることがある。 自分も自信が持てない場合は好んで人になど話さない。ただ、自分の場合は問いに対して simple に合致した占示を得ることが多いと思う。特に爻辭占では結果から御神明を得ていることが分かる。他の人が毎度 妙な卦に格闘しているのが気の毒でならないし、こちらは象や辞をムリに拡げて読むことはしない。 得卦論を論じ合うと、卦を得るのは偶然 or 必然の理解に分かれるのもこういう感覚の違いが割と大きいのではないかと思う。 それでは、自分の筮儀はほかの人と何か違うのか? ●不思議なことが一つある。見かけはただ“気”を錬っているだけに過ぎないが、筮筒に一本 立てた太極に向かうと額の真ん中の下目のところがキューンと引き締まる感じになることだ。 体調がいいと、額の前に手を持って来て近づけたり遠ざけたりするとかなりの抵抗感があってそこがズキンズキンして(手をめいっぱい伸ばしてみても気を遮っている感覚がある)、これ、あちらの世界と通じましたよという“パイロット ランプ”の気がしてならない。太極の筮竹の上端にまっすぐ額を向けるとキューンの感覚が際立ってハッキリし、顔をずらすと弱まる。顔の筋肉はすっかり緩めている。眠気などでこの感覚を澄ませずに筮を執るとダメな結果になりがち。自分の感覚では、集中ということと得卦は明らかに関係している。 それと、この状態になるのは必ずしも問筮に入る時とは限らなくて、意識的にも出来る。集中して“気”を練っていくと、額のそれがもっと固くて?膨らんだ状態になる。 ここは顔の12宮で官禄宮(= 仕事とお金を見るところ。司空・中正)だから、その内もっと“気”を練って仙道の金運の方面を試してやろうとか(笑)。限りある人生、利のない修行は不純だ。 ●知りたいこと[占事・占的]をしっかり思い描きながら筮竹を割るということ。 知りたいことをスイングして、強く思い起こした刹那に割る。あるいは、占的でも、それをあれやこれや思い巡らせながら、それが転じた瞬間に割る。割っている。 よく「心を無にして筮竹を割る」というが、文字通り頭を無の空っぽにしたら、問いそのものもなくなってしまう。意識さえないことになる。だから、例えば「心を無にして戦う」という場合、これは意識の底に戦う姿勢はあるだろうから、「心を無に」とはそういう意味だと説明される。だが、それは単に「雑念を払いなさい」ということと何の違いもないだろう。雑念を払うだけで、そっちに神経を向けただけの頭 空っぽでいいのだろうか? 明治期の “易聖” 呑象・燗 嘉右衛門 翁は、「中 庸」二十六章にある「至誠無息」から、著書「燗易斷」の 48【水風井】三爻のところで「〜身を潔(キヨ)め、心を洗ひ、蓍(メドキ)を額上に捧げて、占はんとする事項のみを専念し、気息を止め、其將(マサ)に絶えんとすると同時に、蓍を中分するときは、神 必ず之に感ず」と書き残している。頭の中にある心魂が走り出て神に接してその啓示を受けるのだと。ここに文字通りの無心は窺えない。息を止めて何々するというのは神道のそれに通じる。 勿論、「いい卦が出て欲しい」などの感情があるのは否定できないが、そう念じたことが卦や爻として反映されるならそれは超能力の方かも知れない。ただ、この卜筮という神秘的な行為には何がどう影響するか分からない。 ともかく、自分の場合は、消そうにも消せない問題を抱えたような時は、つまり占機にある時は、問筮中に多少 雑念が入ろうが問いの内容にキレイに即した占示が得られる。易は「思うことなく爲すことなく、寂然不動、感じて遂に天下の故に通ず」と言う。 ●それから、当然の筮儀なのになかなか注意が払われないことを挙げたらキリがない。 問題が入り組んでいたら自分の知るべきことは実は何なのかを整理してよく詰めるし、問いをシンプルに描く。 それと、肝心なことで、占的は変な“角度”にしないことだ。例えば、日本とどこぞの国が戦争になったとして、日本の戦況の行方が気がかりな時に、「どこぞの国の勝機は?」なんて具合に占的を捻らないこと。“易神”は潜在意識の方を採って来がちなので、誤占する。 こういう点からだけでも人さまの出した卦(枚筮というのかな)というのは読みにくい。 また、黄 小娥 女史は有名な「易入門」の中で「これがいちばんたいせつなことですが」と断りを入れて、「自分の心が乱れているときには、占ってはいけません。〜相当に技量の進んだ人でも、生活が荒れたり、金もうけのことばかり考えたりしていると、占いはかならずはずれてきます」と書いている。「自分の心が乱れているときには」、御意。 ●卜筮が神霊との交信である以上、身の清浄に心掛けることは当然。私は最低でも筮竹を弄る前に手を洗い、口をゆすぐ。神道に倣ったわけではなくて、自然と身に付いた。 ●もう一つ。重要なことで、私は占筮そのものを信じており、疑っていないということ。 これも易占をやる者はそうなのだろうと思うが、簡単な占術ではないから常に深浅いろんな疑問は持っても、易占に対して根本に否定感情がない。その上で筮竹を割っている。これは易に限らず何やら神秘的な現象を体感するには不可欠なことだと思う。 おかげて易占を始めて以来、常識ではあり得ない現象もまずは肯定的な感覚で捉えるようになった。信じやすい人になった訳ではありません。 |
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“占いブーム”と言っても、極めてとっつきにくい易占に火が点くことはない。 易[周易]は五経の筆頭として江戸時代までは今の国語のように教えられており、易占としては周代から 2,500 年もの間 東洋の卜(ボク)の頂を占めてきた。だが、今や国内最大の書店、東京 神保町の三省堂の棚にだってまともな易書は置かれていないし、爻辭占(= おみくじ占。卦や爻の辞を引いて吉凶禍福を見る)止まりのものがあるだけ。昭和の占法家、加藤 大岳 氏の書籍は専門書扱いになってしまって、東京の「原書房」・「鴨書店」、京都の「三密堂」、名古屋の「大学堂書店」ぐらいでしか手に入らないし、出版元の神田の紀元書房にはWEBサイトもない。 そう言えば、たまに銀座を歩いても小机に筮竹を立てて前を向いて座っている易者の姿を見かけなくなった。メディアが持ち上げるのも、人生相談のような気学・手相の人とか、大ハズレを繰り返してとても占術家とは言えない○木 数子 女 氏とか。 東洋の天地自然の理法として政治・法律・軍事に広く利用されて来た易。身近には「資生堂」は社名を【坤爲地 コンイチ】の彖傳の辞「万物資生」から採っているし、卦名の「火風鼎 カフウテイ」という名の中華料理屋があったり、「一陽来復」とは卦名の【地雷復】のこと、「觀光」は【風地觀】四爻、「虎視眈々」は【山雷頥】四爻、「君子豹變」は【澤火革】上爻の辞の文言だし、「幹事」は【山風蠱】の彖辞から生じた。昔は人生の手引きとされた易の広大無辺の真理がどんどん忘れ去られていっているのは大きな損失だと思う。こちらはまあ占術としての機能を尚んでいるのだが。
そういう方には差し当たり「サイコロを使った実占・易経」(立野 清隆 著/五月書房)をお奨めする。タイトルを読んでアンチョクと思うなかれ。これは中国古典文学者が辞のままに占断を書いたような使えないものではなく、慶應義塾大学 教授であり中国占術の研究家でもある著者が実用できるように書いたもので、手っ取り早く卦・爻の大意を掴める。基本事項からちょっとした秘伝までが収められていて、特に八卦に関する部分が資料的に使えて便利だ。ベテランの先生もお使いになる。 また、古いところでは、「黄 小娥の易入門」(光文社)で興味を持ってこの道に入った方が多いだろう。45年以上前の読み物的な本だが、これは64の卦がそれぞれどのようなイメージかということが占例付きでよく解り、読むほどに味わい深い。但し、爻については書かれておらず、実占では使えない。 易の機能には四道、つまり、象・辞のほかに変や占(= 筮法)もあり、筮の構造から極めるなら、「易學大講座」全8巻をはじめとして紀元書房の加藤 大岳 氏の著作(いずれも数十年前のもので、高価)がある。 辞や十翼(= 彖傳、象傳、繫辭傳、文言傳、説卦傳、序卦傳、雜卦傳)を腑に落ちるまで読みこなしたければ、「易經講話」全5巻(公田 連太郎 著/明徳出版社)が平易な書き方で優れている。 こちらは原文の意味を探る時には「易經講話」などと共に「易 − 中国古典選〈1010〉」(本田 濟 著/朝日選書)を使っている。 もちろん易でもって確実に的占するには年期が要るし、易を極めたいなら良い師について腕を磨くことが早道となります。 それと、全国には「燗易断なになに」という組織がたくさんあってお客を取っているが、明治時代に名を博した呑象・燗 嘉右衛門 翁とは全く関係がない。呑象 翁は小玉 呑象 翁に易号を許し、元蔵相の小倉 正恒 氏らに手解きをしたのみで、「燗」の法灯を上げていない。 易占を学ぶ前のこと、そのあるところで恋愛占をやってもらったら、先の成り行きを見るのに64卦の配列も使っていた・・・古い筮法として確かにあるが、燗流で使う三変筮法では先の成り行きを示す変を取らないからそんなものを使のやら。 |
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