トホカミヱミタメ

 
人、陰善を爲せば、神仙、之に報ゆ
  人、陰悪を爲せば、神仙、之を治む
    善悪の動息、天、皆 之を鑑む
善悪の報は、影の形に随ふが如く、
  物の響きに応ずるが如し
汝に出るものは、皆、汝に還る
  是れ皆、天地自然の法則なり
「天地自然之真符文」(紫龍仙)抜粋
 

 只今、編集作業中になります。


どの神社を選ぶか
2023/ 8/ 3-8/ 4
 春先から靈能者やチャネラーと言われる人たちの情報をチェックして来て、改めて読み聴きしてポイントの書き出しを。
 そこで、神社について、彼らが参拝して靈視した神々の息づかいとかエネルギーと、こちらも易で吉・凶なりを質してみて、取り敢えずうなずける神社をピックアップ。
 この内、実際に訪ねたところは少なく、肌感覚を得て来たい。

温泉神社
  温泉神社(福島県いわき市湯本)
いつもライトアップ
 
●金運
 小網神社(地下鉄人形町駅の近く。東京駅からも歩いて)・穴八幡宮(地下鉄 早稲田駅の向かい)…この2社はあーりん さんがご自分の経験上。
●縁結び
 東京大神宮(JR飯田橋駅の南側)、赤坂氷川神社(地下鉄赤坂駅の南側)、二荒山神社(栃木県日光市)、出雲大社(島根県大社町)、貴船神社(京都市左京区)
●強運・出世関係
 被官稲荷神社(浅草寺の裏)、九頭竜大社(京都市左京区)
●天空に柱が立っている
 神田明神(JRお茶の水駅の北側)、伊弉諾神宮(イザナギ- 淡路島/日本最古の神社で、駐車場には神々が立っている、と)…この2社は ちかみつ氏が指摘。

●火の神(やる気を頂く)
 三峯神社(埼玉県奥秩父)、秋葉神社(静岡県、新潟県)、浅間神社、愛宕神社(地下鉄虎ノ門駅の東側)
●水の神(身心の癒やしを頂く)
 箱根神社[九頭龍神社](芦ノ湖の湖畔)江島神社(神奈川県湘南海岸)、二荒山神社(栃木県日光市)、大神神社(奈良県桜井市)、貴船神社(京都市左京区)

 世評ではたくさんある。ランク付けは誰がどんな規準でやったものやら。

 こちらは実家のあった広野町(福島第一原発の南 20 km)の海沿いのすぐ裏の無人の鹿嶋神社(御祭神が武甕槌大神で雷神)を何となく氏神様のようにしている。キチンとご挨拶しないとダメなのか、得意分野の問題なのか、特に御利益といったものは自覚がない。地震で石の鳥居が崩れ、正面から津波に洗われて後ろの本殿が傾いたが、無事だった。太平洋を臨む気持ちの好さはある。
 産土神については意識をしたことがない。
 どう神様を信奉するべきなのか、あらためて易を司る神妙な摂理に質してみた。


占 題
 こちらはどちらの神社を信奉したら良いか(8/ 3)

三 遍 筮 法
得 卦

64 火水未濟
伏卦 6 天水訟
互卦 63 水火旣濟
錯卦 63 水火旣濟
綜卦 63 水火旣濟
 六五、貞(タダ)しければ吉にして、悔 无(ナ)し。君子[六五]の光なり。孚(マコト)有りて、吉。
 象に曰く、君子[六五]の光とは、其れ暉(カガヤ)きて吉 也。
 
 外卦【離】の定卦主を得て、まずは “火” の神様。内卦【坎】の “水” の神様ではない。こちらが注目していた点からハッキリ示された。
 それならば【火水未濟】の卦象・卦意に無理に意味を見出す必要はない。この彖辭等には「小狐」が出て来るが、お稲荷さんとは堤防の先の川の対岸に、草木に隠れていたのか、赤い鳥居と小さな社殿だけの松本稲荷神社があったことさえ最近まで知らなかったほど、幼少からご縁がない。
 六五を陽変した 6【天水訟】||||(← 左を上に。以下 同じ)は神様に求め訴える意味。九五は唯一の吉爻で、爻辭「訟(ウッタヘ)、元吉」で、訴えを聞いて頂ける、と。
 “易神さま” とよく酬酢できているだろう。

 具体的にどこの神社なのかはまだピンと来ないが、象傳「君子の光とは其れ暉きて吉也」…六五の神様か天皇か将軍などの光が暉やいている(= 日光)と。これを日光市と観ても、調べると、二荒山神社ほか水の神様ばかり。二荒山神社の奥宮は火山帯の男体山の頂上にあるようだが、麓はすぐ中禅寺湖…。
 火の神様を御祭神にしている神社を大小 廻ってみたら、靈感は大したことないけれど、ピンと来るかも知れない。



結 果
 

#易占 #易占い #神社 #御祭神



何をどう祈るか
2023/ 6/21-6/22、6/25
 1916 年の数ヵ月間ポルトガル中部の片田舎のファティマで牧場の3人の牧童たちの前に(→ やがて数万人の前に)天から白い霧に包まれて降りて来たファティマの聖母(「ロザリオの聖母」と名乗った)。ファティマにはこちら 2005 年の春に訪問した。
秋田の聖母像
  涙を流す秋田の聖母像
1963 年、秋田市の彫刻家、若狭 三郎 氏が製作。高さ 120cm。材質は未確認。
1945 年からオランダの女性の前に出現した聖母が名乗った「全ての民の御母」、その絵画を模しており、地球の上に乗っている姿。
 
 このことと密接に関わると理解されている、1973 年 秋田市の聖体奉仕会 修道院のシスター・笹川の前に現れた声だけの聖母。この教会に置かれる木彫りの聖母像には計 108 回の落涙…。
 同一の存在と言えるのか不詳だが、彼女たちはなぜ人々に神に祈るよう強く求めるのか。
 真剣な祈りがこの世の物理的な現実を変え得るから。大勢の祈りならばそれだけの験があるから。人の精神は自然界の物理を変える、奇跡を起こす。だから、古来 人々は何者かに祈る。そうでないなら、人が生まれもって心に抱く “神”の存在とそこに祈る行為とは何だろう。コンピューターは定義されなければ “神” を認識することはない。

 では、誰に対して祈り求めるの? 漠然とした “神” に対して? 誰を想像するの? こちらは祈り自体を目下 研究中。
 こちらは易の問筮だと、人格神のような存在を想定することがなくなった。筮前・筮後に宋代の朱 熹[朱 子]が残した「問筮の辞」を唱えもしていない。ただ、易を司る神妙な摂理の遍在をよく意識して、切実真剣な思いの中に問い質すと、そこに願望が入る云々 関係なく、真っ直ぐな問いであるほど明瞭な占示・示唆を得る。これはもう退っ引きならない問題で取り組んでみれば分かる。
 翻って、祈りではどうなのか。作用機序から究明したい。易との関わりでは、願望の占示への影響も。

 クオーク・レプトン・ヒッグス粒子などの量子は粒子性と波動性を併せ持っており、人が観察するまでは確率としてしか存在せず、観察することで物質化し、初めてその厳密な位置や速度などの状態を確定できる。この有名な「二重スリット実験」の結果は多世界解釈でないと説明が着かない。
 微視的世界だけではなく、巨視的世界においても、例えば月の実在性だと「誰も観ていない間は月は存在しない」という実在性の破れについても実証実験で立証されつつある。我々の肉体も固有振動数を上げてゆけば見えなくなるし、原子以下のレベルで見たらスカスカ。
 我々は実在するのか? この客観証明はルネ=デカルト[FRA]の「Cogito ergo sum」だけで語れる時代は終わっている。

 精神と物質の二元論は「観察者効果」で否定された。今後、祈りによる物理変化への研究も進むだろう。
 「人生は短い。あの本を読めばこの本は読めない」(ジョン=ラスキン)と同様、人は何ごとについて真剣な祈りに費やすべきや。

 シスター・笹川の証言:
 「修練所よ」という呼びかけで、お話しくださいましたですけど、その時はマリア様は「愛する私の娘よ」この時はすごく厳しいを声でした。
 「愛する私の娘よ、これから私が話そうとすることをよく聞きなさい。
 そして、あなたの長上に告げなさい。
 前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、御父は人類の上に大いなる罰を下そうとされております。
 その時、御父は大洪水よりも重い、今までにない罰を下さるに違いありません。
 日が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。
 良い人も悪い人と共に、司祭も信者と共に死ぬでしょう。
 生き残った人々には死んだ人をうらやむほどの苦難があるでしょう。
 その時 私たちに残された武器はロザリオと御子の残された印だけです。
 毎日ロザリオの祈りを唱えてください。
 ロザリオの祈りを以て司教司祭のために祈ってください。
 悪魔は教会の中まで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。
 私を敬う司祭は同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。
 祭壇や教会は荒らされ、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって多くの司祭や修道者がやめるでしょう。
 特に悪魔は御父に捧げられた霊魂に働きかけております。
 沢山の霊魂を失うことは私の悲しみです。
 これ以上 罪が続くなら、もう罪の赦しはないでしょう。
 勇気をもって、あなたの長上に告げてください。
 あなたの長上は祈りと贖罪のわざに励むことを一人一人に伝えて、熱心に祈るように命じるでしょう」

 というような、そういう厳しいお言葉でございました。

 ※ 「カルジナル」とは枢機卿のこと。

https://www.youtube.com/watch?v=zL3tg863fSE

 そして、真剣に臨む易は人の判断を助ける、身を救う。易を司る神妙な摂理とヒシと通じる。ここには充実した楽しさあり。
 易に手応えの経験もない者が常識人を纏って易を世の「占い」扱いする。この道に縁なき衆生。



< 個人的な願いの成就を求める祈り[祈願]のやり方 >

 例えば、恋愛・結婚のことだと、「素敵な人との出会いをお願いします」のように、神なり仏なりにただ丸頼みする祈り方は宜しくない。多分これは祈りの成就というものの法則に則っていない。
 「素敵な人との出会いが適うよう、自分に勇気(or 行動力・気付き・キッカケ)を与えて下さい」のように、あくまで自ら行動に努める姿勢があって、そこに対する力添えをお願いすること。こちらの経験上もこれが結果に繋がる。
 これは祈願の重要なポイントで、古来、God helps those who help themselves.(神は自らを助くる者を助く)。靈能者でも別格の神通力あり全体視野を持つとお見受けする月夜見さんや御神体を体に神降ろしする縁(エニシ)ちえ さんも同様に語る。

 また、願いを叶えてもらう対価として、自分も何かしら犠牲を払うことが古来 世界各地で行われて来た。いけにえでは、人身御供(= 人間のいけにえ)、スケープ ゴート(= ヤギのいけにえ)。後者は今も方々で行われている。

 これは神との取引であり、宜しくないとされる。人間の想像など不明 且つちっぽけなものであり、これだと取引以上の神の恵みを得られなくなる。

秋田の聖母像
  ヤシンタ=マルト(1917)
 
 上に書いたファティマの聖母は世界の贖罪のために、予告した通り、10歳のフランシスコ=マルトと妹の9歳のヤシンタ=マルトを数年後に天国へ連れて行った。特にヤシンタは当時 大流行したスペイン風邪により麻酔なしで肋骨2本を切断する凄絶な苦痛に耐え続けた末に命を終えた。純真で敬虔な彼女は天の側から何の至福も得ないまま…報われるとは限らない信仰の苦しさ。
 ポルトガルでもファティマの聖母に対しては「何が聖母なの? 子供をあの世に連れて行って!」と国民の間に悪感情もある。
 死はその存在が消滅することではないとしても、こうした犠牲については現在どう価値判断したらいいのか…異界・宇宙全体の実在とその摂理への認識の中に答えを求めることになる。この時間を含めた4次元の物理世界に犠牲の積極的な意味について理解される時代が来るのやら…。

 祈りではないが、こちらは昔、不明な身内によって愛猫♀を避妊手術することに追い込まれた時に肉食を金輪際やめた。肉を食べないと食事した気にならなかったほど肉好きだっだが、犬・猫たちを可愛がりながら肉を口にするには矛盾と罪悪感が年々 募っており、理不尽な抑圧を振り払えなかった自分へのペナルティーに、今日から一生 肉食を絶つと決めて、母親にも伝えた。
 「一生」と決めると、もう以前の自分には戻れない。すると、何とも清々しい “聖なる気分” が内から湧いて来たのだ。この気分が神学者ルドルフ=オットー[GER]が著書「聖なるもの」で書いた「ヌミノーゼ」かも知れない。洗礼も、これが感じられるようでないと。それには、自ら正義に臨むこと。
 皮革の製品も買わないことにして今に至る。
 東西の古典的倫理観の中に生きることが人間としてのマトモですよ。

 (編集途中)

#易占 #易占い #祈り #祈願 #ファティマ #聖体奉仕会 修道院



“地動説” を生きる
2023/ 6/ 4-6/ 5(改 9/ 8)、6/ 7-6/ 8(改 6/29)
 「生」に対する「死」とは未だに “天動説” をやっている人々の錯覚。

 死ぬとは、0次元(= 概念上の位置としての点)から始まって、1次元(= 線の空間1次元)、2次元(= 面の空間1次元。面までは概念であり、実態がない)、そして、我々が存在するこの3次元(ここで初めて実態としての空間が成立し、視覚の対象になる)+ 時間1次元の4次元になると、ここに存在するのに必要な窮屈な物理的肉体から解放されて、「靈界」と言われる5次元の時・空間に移ることと理解される。次元上昇[アセンション]?
 「次元」とは動ける方向の数。時・空間をその方向に parallel に微少にずらして無限に重ねたものがプラス1次元の時・空間。
 この5次元の時・空間を臨死体験者の考察を交えて言うと、4次元では一方向だった時間の流れが双方向になると言うか、過去・現在・未来が共存する。更に、空間の在り方がそれまでとは異なって図示もできず、物理的肉体の身では、4次元の時・空間からは視認できない、存在を認識できない。

ワープする宇宙
  5次元宇宙理論。2007 年のベストセラー。
Kindle のサンプルが読める
異次元は存在する
  宇宙飛行士の若田 光一 氏がリサ=ランドール教授(ハーバード大学)にインタビュー。
2007 年の出版。
 
 リサ=ランドール教授(61、ハーバード大学)の研究グループは、宇宙は我々が存在するミンコフスキー時空で言うこの4次元[brane](= 空間3次元 + 時間1次元)を大きく取り巻くようにして5次元以上の時・空間[bulk]が存在し、bulk の大空間に brane の小宇宙が膜のように無数に浮かんで存在するという構造を理論的に立証した論文を 1999 年に発表した。5次元とは、4次元+「5番目の次元方向への距離で表される」或いは「もう一つの空間」という表現をしている。
 5次元の時・空間をシャワー ルーム、4次元のそれを内部のシャワー カーンに付着する水滴に見立てて、水滴はカーテンの上で移動は出来るが、シャワー ルームの空間に飛び出すことは出来ない、と。そして「5次元世界は我々の次元世界に驚くような影響を与えている可能性がある」と。
 超弦理論の高次元空間での整合的な理論構築をも試みる「ブレーン ワールド仮説」。
 要するに、彼女が想定する5次元の時・空間とは4次元のそれをおそらくは時間の方向に真っ直ぐ無限に重ねた世界。

 素粒子物理学者の一群は、マクロの世界の一般相対性理論とミクロの世界の量子力学との統一も、電磁気力・強い核力・弱い核力・重力の4つの力の統一も可能とする「超弦理論」が成立するためには、宇宙は10次元(= 空間9次元 + 時間1次元)である必要がある、と。
 我々のいる4次元を除いた余剰の7次元の空間は量子力学的な長さの最小単位であるプランク長程度(10のマイナス35乗m)の弦(ヒモ)ほどに極めて小さく丸まっていると言われたが、余剰次元の幾つかは大きく広がっているとの理屈も出て来た。
 5つの超弦理論が提唱され、これらは「M理論」として統一されており、宇宙は11次元の時・空間であることを前提とする。
 以上はこの動画が解りやすい。

シンクロニシティ
  インタビュー論文に科学作家の竹内薫と脳科学者の茂木 健一郎が解説を加える。初版は 1997 年。
 
 また、2020 年ノーベル物理学賞受賞者でオックスフォード大学ほかで教鞭を執ったロジャー=ペンローズ氏(92)は、脳の神経細胞にある微小管で起こる電子の収縮 → 量子もつれ → 電子の収縮 → 電子もつれのサイクルにより思考・感情の意識が生ずる、と。
 更に、人は死ぬと意識 = 魂が量子状態で体外に拡散して宇宙のどこかに戻るするという「量子脳理論」を30年も前から主張。量子の「状態の重ね合わせ」(= 量子は同時に右にも左にも回転しており、Aの場所にもBの場所にも同時に存在している)と「量子もつれ」(= 一つのもつれ状態から産まれた2つの量子はどれだけ離しても、片方の変化が光速以上の早さでもう片方に同期で起こる)により、脳が瀕死状態なるとその量子は肉体から離れ、宇宙側の量子と共に生き続けるという理屈。
 量子もつれは、多世界解釈の根拠にもなり得るが、精神科医・心理学者のカール=グスタフ=ユング[SWI]が唱えたシンクロニシティー[共時性]の物理的根拠にもなり得る。どちらも原因と結果の間に因果関係がない。つまり、量子もつれは現代科学の基礎であった因果律を崩壊させてしまった。

私が見た未来 完全版
  木内 鶴彦さん
臨死体験のベテラン。
 
 「死」は果たして恐いことなのか…。
 高い次元は低い次元を物理的に含む(5次元以上で時間の次元を複数 想定する場合はこの限りではない)即ち、地上にも、性状が異なる時・空間として共存している。実際、この世で靈体を見るわけで。
 他方、臨死体験者たちの証言からすると、我々は5次元の時・空間に移行しても、意識体の自分が消滅するわけではない。死者はこの世と同じ地上に存在しているだろう、と。
 5次元に移ると、それまでの時・空間の物理原則に縛られなくなる。眼で見える・声が聞こえる感覚も意識も感情もこの世のままで、かの故・宜保 愛子さんも3度この世に舞い戻った木内 鶴彦さん(69、世界的に著名な彗星発見者)も、あちらでは人や場所を思い浮かべだだけで瞬間的にそこに移動する、と述べている。心臓の止まった自分の体を外から眺め、姿が見えない肉親のことを思った瞬間、その人の隣へ移動している、という具合(外国でも同様の証言)。人や場所を思っただけでそれに反応してそちらに移動する仕組みは、問いに対する占示に通底する!
 逆に、何かの思いが強いと同じ場所にずっと留まる、と。上にも昇りたくない。それも出来る。いわゆる地縛靈なり。
 更に、下位次元のこの世の過去や未来にも瞬時に移動できる、と言う。すると、この世の子孫が今後どうなるかも分かってしまうため、靈は盛んにこちらに伝えようとするし、亡くなるタイミングでお迎えに来るのもそのため。例えば、靈能者がタレントなどの亡くなった親族を靈視をすると、体の具体的な部位を指して注意を促して来るだろう。つまり、同じタイムライン上では、運命は既に決まっている、ということ。

私が見た未来 完全版
  成田 ヨウスケ さん
 
 30年ほど前に49日間も臨死体験を続けたという演歌歌手の成田 ヨウスケ さんは更に、臨死状態ではこの世の人の思っていることも分かるし、三大欲求は全く湧かない、と言う。この前半についてはこちらは疑問だが、翻って、この世はすべからく「欲」でもって成り立っていることに思い至る。
 で、何でも分かってしまうので、あちらではその内 退屈になって来るとは木内 鶴彦さんも語る。知りたい欲が満たされると、我々の知的関心は次にどこへ向かいのか…。哲学には事欠かない。
 何か欲しいものがあると、すぐ目の前に現れて手に入る、とは否物理世界ならでは。
 また、この人は特に、三途の川のところで地獄かとこかへ落ちる人を見てビビると九頭龍が現れ、背中に乗せられて、神界から地獄までを見せられた、と言っているが、これ、話を盛っていないか…。故・紫龍仙道人[渡辺 壽眞 氏]は異界には龍が二種類いるとは言っている。
 また、九頭竜大社(京都市左京区)の神様が彼に三途の川の話、臨死体験で見た神様の話をするよう地元の靈能者の人に何度も言われて来た、と。

 こちらは かの「周易裏街道」の仁田 丸久 氏がポツリと言った「易は靈學の入り口」に食い付いて、あらゆる分野・視点からこの次元というものの実態を解明することがライフワークになった。
 因みに、こちらは昔、朝 眼が覚めようとして、幽体離脱の状態(= 肉体は金縛り状態)から我に帰って肉体に戻る時、●この世の “振動”(= 環境原子の振動周波数?)というかテレビの砂嵐のようなジーっとしたこの世の粗さ、●肉体の中に縛られる窮屈さ、●地球への重力、この3つを一気に感じて、この現実世界が何とも憂鬱に感じたもの。それぐらいこの世は粗野で、靈体は快活。
 靈体の状態で何をしたかは記憶がないが、他愛もないことだったと思う。フワフワと街の上を飛んだり。これは二十歳過ぎ頃まで何度も経験した。本来 自分はこうだったんじゃないか、と。だから、大きくなって野卑な実社会に出ることなど憂鬱そのものだった。
 逆に、一度、靈体として寝ている胸の辺りからスルッと頭の方に抜け出ようとして、そのことに気付いたことがある。「うわっ、恐え、恐え」と踏み止まって、金縛り状態からグイッと覚醒したことがある。この時、肉体に戻るこの憂鬱さは何度も経験して来たことを思い出した。
 若い頃はデジャヴ[既視感]も日常よくあった。遠い昔に見た映像ではないことが多くて、印象的な思いとしてハッとする。
 こちらの母は若い時に腹膜炎の外科手術でだったか、死にっぱぐれた時、非常にキレイなお花畑と三途の川を観たと言っている。何の理由でか、渡らなかった。こちらも孤児にならずに済んだ。

易は靈學のおもての顔
 易を司る神妙な摂理は、未来も過去も瞬時に行き来し、我々を5次元と繋ぐ。
 明治期の呑象[高島 嘉右衛門]翁は、私欲的に筮を取れば、鬼神(= 易を司る摂理)ではなく、遊魂つまり邪靈が感応して前途を誤りかねない、と警告しているが、この次元的な構造を既に見越していた。
 ここにハタと気が付くに、易はあちらに移った人との通信手段に使えるかも知れない、と。2007 年、母方の祖母が亡くなった後に祖母の心境を質しているが、この認識が薄かった。
 仁田 丸久 氏の言われる「易は靈學の入り口」の意味がここにもあった。
 
 5次元の時・空間からはこちら側が一方的に見えるし、聞こえる。ただ、こちら側の頭の中まで分かるわけではないと言う人もいるので、気持ちは仏壇に手を合わせたり墓参など態度で示す必要ありか。
 互いの物理的接触が未発達のままで(或いは、大昔に退化したままで)、特にこちらからの接触はちょっと面倒。
 それでも、純真な強い想い・祈りは互いにこの壁をしばしば乗り越えるし、我々には靈能者の活用あり、ヘミシンクを習得する方法もある。

 そして、あちらに移った人はこの世に子孫も知り合いもいなくなると、自分で選択するのか、意識体の自分(= エゴ)がリセットされる過程を経ながらこの世に生まれ変わり、この輪廻転生を数百年ほどの間に何度も繰り返す、煩悩を削りながら。
 終には5次元までの時・空間から抜け出るらしいが、これを仏教等では「解脱」「涅槃」と言っている。
 キリスト教では、聖書に輪廻転生の根拠はないが、原理主義者以外の信者には広く受け入れられている。

 我々は意識の上ではこの世での経験しかないから、「死」=自己の消滅と捉え、悲しみに浸り、それ以外の摂理について4【山水蒙】||(← 左を上に。以下 同じ)の認識がはびこる。
 そんなのは間違いと言うなら、なぜ「死んだ」愛猫がこの耳元であのいつもの声で鳴いたりするのか? この程度をわきまえた靈能者はどこの地域にもいるし、ネットに次々 無名の靈能者が登場することは時代の変化を感じさせる。「それでも地球は回っている」(ガリレオ=ガリレイ)だ。

 やがてこの世も “地動説” が当たり前になるだろう。5次元は5次元なりの “天動説” の錯覚が控えている筈だが、迷信を剥いで、更なる高みへ昇ろうとする魂でありたい。



占 題
 5次元では靈体も自分の未来が分かるのか(6/ 7)

 疑問が湧く。5次元の靈体が自分の未来が分かるならば、不都合なことは可能な限り回避する筈。これで未来が分かることになる? そして、一つのタイムラインにある長大な歴史はメチャクチャになるが、そこはあちらではパラレル ワールドなりで解決されることなのか…。
 それとも、未来が分かる対象は4次元のことだけなのか。

三 遍 筮 法
得 卦

15 地山謙
伏卦 36 地火明夷
互卦 40 雷水解
錯卦 10 天澤履
綜卦 16 雷地豫
 初六、謙謙す(= 謙遜の上に謙遜)。君子[初六]用て大川を渉(ワタ)る。吉。
 象に曰く、謙謙する君子[初六]は、卑にして以て自(ミズカ)ら牧(ヤシナ)ふ也。
 
 この占示はどう読むのが適当かな…この卦は【艮】 “山” ・ “神” が【坤】 “地” 、 “空っぽの時・空” の下層にある形。最も下の爻。また、この卦は旁が「兼」ねる。そして、この辺りの読みを採るならば、5次元の靈体はやはり何らかのタイムライン上の時間およびそれに伴う空間の行き来は自由。
 即ち、もしある時点・場所から複数のタイムラインを行き来できるのであれば、この疑問は解消するのではないかな。タイムラインAの未来では成功、戻って来て、同Bの未来では失敗、というように複数を知れるならば、それぞれのタイムラインが壊れることはない。
 あとは、この4次元の住人の頭では、あちらのタイムラインのことは想像がつかない。

 因みに「易は将来を当てるためのものではない」と言う人がしばしばいるが、それはどういう意味? 易はそもそもが知り得ない先のことを神靈に問う占いの道具。「先の失敗にならないために使うものだ」とするならば、易を狭い儒教道徳の下僕にしていないか。

 尚、この卦・爻では米・中の軍事衝突に関わる 2020 年に執った占があった。
 今 気付くに、再来年については漫画家たつき 涼さんが「私が見た未来 完全版」で「本当の大災難は 2025 月7月にやってくる」と予知夢のことを書いている。次の記事に続ける。



結 果
 

#易占 #易占い #霊界 #タイムライン #パラレルワールド



秋田の聖体奉仕会へのお告げ
2023/ 1/10-1/11、1/13、2/25、4/20
 世界各地で確認されている聖母マリアの降臨で、最も有名なものがポルトガルのファティマでの出来事。
 1916 年、ポルトガル中部の片田舎の町ファティマで羊の世話をする3人の牧童の前に14・15歳ほどの男の真っ白な天使がオリーブの木の上などに何度も出現して、自分と一緒に祈ることを求めるなどした。天使はこの国の守護天使「ポルトガルの天使」と名乗った。第1次世界大戦が終結したこの前年には年長のルシア=ドス=サントスは3度 天使の姿を見せている。
 そして、1917/ 5/13、上空からまばゆい光と共に柊の木の上に「ロザリオの聖母」と名乗る聖母が現れ、この現象はその後 半年間に7回 続いて、最後の 10/13 にはヨーロッパ各地から集まった約7万人の群衆の前でいわゆる「太陽のダンスの奇跡」等を起こして見せると共に、聖母は 7/13 の3度目の出現の時に、人類の行く末を示す3つの重大事を牧童らに告げた(ワーナー映画「ファティマの聖母の奇跡」)。

ファティマの3人の牧童
  Lúcia dos SANTOS, Francisco MARTO, Jacinta MARTO。1917 年撮影。
 
 その内、いわゆる「ファティマ第三の秘密」についてルシアは聖母より 1960 年になったら公開するよう告げられ、そのことをローマ教皇庁に伝えたが、教皇庁はこの本当の内容を公開しようとしない。
 1960 年当時の教皇ヨハネ23世は教理省から受け取ったこの内容の封筒を開封せず、公表せず。
 1965 年その内容を確認した教皇パウロ6世は驚愕狼狽したと言われ、公表を避けた。
 2000 年になって教皇ヨハネ・パウロ2世はそれは教皇暗殺の内容だとして最終公文書の公表を行ったが、それは前2つの啓示に比べて著しく小事であり、信ずるに足らず。啓示を受けた当人のルシアは自ら口に出来ない立場に置かれながら、最終公文書の内容は事実と異なると訴訟を起こしたほど。

 教皇庁がバカをやっている。ヴァチカンは戦争とカネ儲けで世界を転がすディープ ステートから巨額の経済的支援を受けている。ディープ ステート = 悪党の国際金融資本=ウォール街・ロンドン シティー = グローバリズム勢力。
 ロザリオの聖母出現の時、聖母からは特にロシアについて教皇へ要望があった。ロシアを聖母に奉献し、当時ロシアが引き起こしかねない災厄と悪の共産主義のプロパガンダから世界を救うこと、と。

 聖母が 1917/ 6/13 の出現でその内に天国へ連れてゆくと予告した通り、フランシスコ=マルトは 1919 年10歳で、妹のヤシンタ=マルトは 1920 年9歳で逝去。ヤシンタは多くの罪人の罪をその身で償うためとして、治療のために麻酔なしで肋骨2本を取るなど壮絶な苦しみを受けながら亡くなり、遺体は死後15年後と31年後に掘り返されると、顔だけは全く腐敗していなかったことが写真でも記録されている。
 子供を謂わば生贄にしたことに対して、あちらでは批判の声がある。
 聖女ルシアはカトリックの修道女となって自らの役目を全うする人生を送り、こちらがポルトガル縦断の自転車旅行でファティマを訪れた 2005 年の春、その70日ほど前に97歳で帰天している。その一連の行事のためか、ファティマの街には何か賑わいが感じられた。

*     *     *

 さて、秋田県秋田市湯沢台の聖体奉仕会 修道院では 1973 年シスター・アグネス=笹川カツ子(諸事情で名前を出さない資料が目立つ)の前に女性の天使が何度も現れ、それまで日本に伝えられていなかったファティマの祈り(= 祈祷文。ファティマで聖母が初日に3人の牧童らに教えたものと一致)を教え、ロザリオの各連の後に付けるように、と指導し、また、聖体礼拝の時には旧約聖書の創世記三章十五節を示された。シスター・笹川の全聾の治癒も予告している。

秋田の聖母像
  涙を流す秋田の聖母像
1963 年、秋田市の彫刻家、若狭 三郎 氏が製作。高さ 120cm。材質は未確認。
1945 年からオランダの女性の前に出現した聖母が名乗った「全ての民の御母」、その絵画を模しており、地球の上に乗っている姿。
 
 続いて、シスター・笹川の左の掌には断続的に吹き出すような出血と抉られるような痛みを伴った十字架の形をした傷「聖痕(スティグマ)」が現れた。
 続いて、修道院内にある木製の聖母像の左手にも同様の現象が起こった。
 聖母の視覚的な出現はない。

 そして、1975〜1981 年、甘い芳香と共に、この聖母像が 101 回 涙を流し、このことで聖体奉仕会 修道院はキリスト教の世界的な聖地となった。
 この涙は秋田大学と岐阜大学の法医学教室で鑑定を受け、ヒト体液であることと、血液型がB型、AB型、最終的に不純物のない検体でO型と判定された(シスター・笹川はB型。トリノの聖骸布のはAB型だと記憶していたが、1978 年の検査ではB型?)。

 1988 年、教皇庁は聖母の啓示について「奇跡」認定を行っている。
 最後のお告げがあった 10/13 はファティマの最後の聖母出現と同じ月日であるなど、特にファティマの奇跡との類似性が指摘されている。
 ヤシンタ=マルトの誕生日 1910/ 3/11 に秋田の聖母マリアの落涙の 101 回を足すと東日本大震災の 2011/ 3/11 になることは数字のお遊びだろうか。

 この 1973 年の聖痕の後、7/ 6 から3回に渡って聖母像の方から女性の美しい声でお告げがあり、この内容が「ファティマ第三の秘密」の内容ではないのか、と言われている。
 1992 年、秋田での国際マリア会議で、後に教皇ヨハネ・パウロ2世の次に教皇ベネディクト16世となるヨーゼフ=ラッツィンガー枢機卿は伊藤 庄治郎 司教に「秋田のメッセージはファチマの第三の秘密だ」と言って当地への調査団の派遣は必要ないとしている。

 尚、シスター・笹川は19歳の時の盲腸の手術の失敗のため中枢神経麻痺で16年間 寝たきりの闘病生活を強いられ、聖体奉仕会に身を捧げた人で、1973 年からは両耳の聴力が喪失したが、天使の予告通り、この年の 10/13 に治癒した。

 「修練所よ」という呼びかけで、お話しくださいましたですけど、その時はマリア様は「愛する私の娘よ」この時はすごく厳しいを声でした。
 「愛する私の娘よ、これから私が話そうとすることをよく聞きなさい。
そして、あなたの長上に告げなさい。
前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、御父は人類の上に大いなる罰を下そうとされております。
その時、御父は大洪水よりも重い、今までにない罰を下さるに違いありません。
日が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。
良い人も悪い人と共に、司祭も信者と共に死ぬでしょう。
生き残った人々には死んだ人をうらやむほどの苦難があるでしょう。
その時 私たちに残された武器はロザリオと御子の残された印だけです。
毎日ロザリオの祈りを唱えてください。
ロザリオの祈りを以て司教司祭のために祈ってください。
悪魔は教会の中まで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。
私を敬う司祭は同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。
祭壇や教会は荒らされ、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって多くの司祭や修道者がやめるでしょう。
特に悪魔は御父に捧げられた霊魂に働きかけております。
沢山の霊魂を失うことは私の悲しみです。
これ以上 罪が続くなら、もう罪の赦しはないでしょう。
勇気をもって、あなたの長上に告げてください。
あなたの長上は祈りと贖罪のわざに励むことを一人一人に伝えて、熱心に祈るように命じるでしょう」

 というような、そういう厳しいお言葉でございました。

 ※ 「カルジナル」とは枢機卿のこと。

https://www.youtube.com/watch?v=zL3tg863fSE


 そして、時が経って 2019/10/ 6 の夜中、シスター・笹川の前に 1973 年と同じ女性の天使が現れた。天使は彼女を聖堂に導き、「灰をかぶって悔い改めのロザリオを毎日 祈ってください。幼子のようになって、毎日 犠牲を捧げてください」と告げた。シスター・笹川はシスター・Mに「時が近いと感じた」と話している。
 こちらもダボス会議[世界経済フォーラム]の秘密会議で話し合われたらしいmRNAワクチン接種による世界の人口削減の次には何が仕掛けられるか、非常に気になっている。世界はこのまま沈静化する感じがしない。
 シスター・笹川は 1931 年生まれで、ご存命かも知れない。

*     *     *

 こちらはご先祖のお墓は何れも福島県や大分県のお寺にあり、宗教をやるなら、面白いのは中国に入る以前の仏教哲理。

 保守の日本史好きから神道への関心が強かったが、我利しかない朝鮮系の蘇我 蝦夷が 645 年に飛鳥板蓋宮の朝廷の書庫を死なば諸ともと焼き払って「天皇記」ほか有史以来の史料が煙となり、「国記」は行方不明になり、神道の何かには雲を掴むような世界になった。この時、東アジアなら “大陸的なもの” 、ヨーロッパならヨーロッパ文明のような古い精神の軸も失った可能性がある。
 だから、古神道や神仙道には超能力方向の関心ばかり。

 キリスト教はエルサレムから西へヨーロッパに広まっただけでなく、東へも伝播し、景教[アッシリア東方キリスト教]が2世紀頃にはユダヤ系の人々により伝来して、神道の骨格に大きく関わっていることは確かであり、キリスト教への関心が尽きない。「釈迦伝」は「キリスト伝」の模倣。
 海外の自転車旅行も気が付くとほぼ巡礼…ファティマのロザリオの聖母大聖堂を含むポルトガルの教会・修道院巡り、スペイン北部のザビエル城を含むサンティアゴ デ コンポステーラへの巡礼路の旅、アジアでも、仏教・道教の施設の他は、フランシスコ=ザビエルが仮埋葬されたマレーシアのマラッカのセントポール教会に寄ったり、各地の教会巡り…。

 こちらは母方の祖母からの靈的遺伝なのか「聖清」なる気分に浸りたい人間で、東京時代は、早朝、裏手の東京カテドラル聖マリア大聖堂 関口教会のルルドの洞窟の前の長椅子でボンヤリしたり、愛猫♀の避妊手術を強いられた懺悔でその日から肉食をやめると決めた時の「聖清」なる気分は、靈的なステージが上がって人生がそこで革まったかのようだった。
 同時に、易占の修行でこの世が現代物理で完結するものではないことが確信できている。自分の靈性 或いは能力の深化を実感するには次に何を?

 そして、この聖体奉仕会のために何か仕事が出来ないか…。



占 題
 聖母や天使は聖体奉仕会 修道院に再び現れるか(2/25)

三 遍 筮 法
得 卦

8 水地比
伏卦 39 水山蹇
互卦 23 山地剥
錯卦 14 火天大有
綜卦 7 地水師
 六三、之[上六]に比せんとすれど人に匪ず(= 親しもうとする人が正しい人ではない)。
 象に曰く、之[上六]に比せんとすれど人に匪ず、(傷ましいことが色々あるがこれも)亦 傷ましからず乎。
 
 よく示される卦・爻。
 卦は比(シタ)しむ・比肩であり、六三はその逆意で、比しまず・比肩しない、即ち、聖母や天使は以前のように現れることはない、と普通は判じる。

 ただ、この古代中国の爻辭「人に匪ず」は比しむところの者がマトモではないわけで、ここの負のニュアンスからすると、聖母や天使に対する悪魔系統の者の出現が想像されて来る。
 比(シタ)しむとは、外卦【坎】の “水” が内卦【坤】の “土” に染み込んで馴染む性質から来ている。【坎】は “悪い者” 、【坤】は “民” 。悪魔の手口というのは一に人ダマシであり、共産主義のそれ。ここでは神のフリをして現れる…。

 判断は、聖母や天使が再び現れることはないか、更に、悪魔系の者が現れるか。爻辭は 384 しかなく、この爻辭は意味内容的にはよく合っているように思う。

 この卦・爻にはこんな占とか、こんな占とか。



●「現代の奇跡 秋田の聖母マリア — 聖母像の涙とメッセージ —」(1987/安田 貞治 著)
●「奇跡と涙 ― 続・秋田の聖母マリア」(1993/安田 貞治 著)
●「極みなく美しき声の告げ 復刻版」(2015/カトリックグラフ特別取材班)が揃った。
●1997 年のローマ国際マリア会議の論文「日本の奇跡 聖母マリア像の涙―秋田のメッセージ」(2001/安田 貞治 著)は科学調査の記述もあるのかな。


結 果
 

#ファティマ第三の秘密 #聖体奉仕会修道院 #秋田 #シスター・笹川



苫米地 英人 氏の認識論から
2014/11/27
 脳機能学者の苫米地 英人 氏が言う通り、「般若心経」は大乗仏教の「空」の概念ではなくて「無」のそれを言っているのだから、中国の老荘思想・道教がルーツではないの? と誰でも気が付く。
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 「色即是空、空即是色」は繰り返しの倒置法が如何にも中国の構文だが、これはおかしいよね。「色」とは、苫米地 氏はサイエンスから定義を詰めて厳密に「物質」としているけれども、臭いも記憶も幽霊も認識まで含む何かしらの性質で、有のこと。対して、「色」とイコールとされている「空」とは「何もない」の絶対的無のことではなくて、これは道家的「無」のことに思える。要は道教の「太一」「太乙」と同じで、我々の易学で云う「太極」。有と無を包摂して、究極に抽象度の高い概念。だから、「色」とイコールにはならない、と。

 https://www.youtube.com/watch?v=PX3poQqj260
 http://www.nicovideo.jp/watch/sm20294624

 「空」の概念自体、インドの大乗仏教中観派の龍樹[ナーガールジュナ]という個人が存在して、それが理論付けした、というのも疑わしい。
 「空」とは・・・あらゆる存在や現象は、何かに起因して起こるわけで、他の一切から独立して且つ不変に存在するのではない。両親の存在なしにポンとこの世に登場する者はいない。全ては縁起、つまり、因果関係にある。「空」とはあらゆるこの関係を成立させる大もとの0の状態。0はサンスクリットでシューニャ(形容詞)。「空」はシューニャター。
 この「空」には無も含まれる。理屈で言えば有の反対の様態だからだが、我々は、無は有によって初めて認識できる。無には無という呼び名があるだけで実体がない。
 それなら、全ては所詮「空」ではないか、と。

 しかし、以上のどこまでがインド由来なのかが実際 分からない。古来、日本に入って来た仏教はほぼ全て中国製のようだ。偽経。サンスクリットやパーリ語に精通した中村 元 先生の本でも読み込んで検証することになる。
 これが日本では更にトンチンカンに理解されて、「色即是空」は「諸行無常」のことみたいなモノノアワレになり日本人の悲観主義な人生観が出来上がってしまった。

 
 他方、「般若心経」にある「空」、即ち、道家的「無」は、中国同士で、易の「太極」の概念にそのまま合致する。万物の根源であり、易学の生成論で言えば、未だ陰陽未分化の混沌とした状態のことで、韓国の国旗の真ん中のあれ(陰陽の両儀に別れてしまっているが →)。陰陽二元論(例えば、♂だ♀だ)の上位にこの「太極」(生物だ)がくる。下に、八卦、六十四卦、更に爻と枝分かれする。

 古来、中国人の宗教観は、上座部仏教ような個人の悩み苦しみを救済するのではなくて、社会や国を改めるところからの庶民救済にある。即ち、大乗。易学を借りて柱に据えた儒教しかり。それに、大乗仏教の密教となると、中身はまるで道教だ。その、道教も新興勢力の仏教に対抗するように老子を始祖に祭り上げて、大蔵経に倣った道蔵を編んでいる。
 つまり、中国に仏教が入ると、やがて老荘思想・道教でもって一切を包摂する大乗的な究極の世界観・哲学に作り替えてしまった。しかし、仏教徒としてはそれらをパクったとは言えない。それで、中国でも名声が鳴り響いていたインドの龍樹が理論づけした、としたか、或いは、自然とそんな認識が弘まって行ったか。経典を比較すると てにをは の使い方が違うことから龍樹という個人が存在したことにも疑問が及んでいるし、「般若心経」はインド産ではなくて、中国製の偽経のようだ。大乗経典とされるものの多くは漢語で纏めたものを、聖典めかしてバラモンのサンスクリット[梵語]にした。それが証拠に、漢本より古いサンスクリットの写本はどこにも見付かっていない。その一番古い漢本の般若心経は法隆寺にある。

 秘伝を只で教えて他人を利するバカはいないと、何でもちょこっと変えて表に出して客引きをやって、「実はこうだよ」と商売をやるのが中国であって、中国製のセオリーには必ずこの陥穽がセット。
 例えば、易の卦の 46【地風升】を、日本でも仁田 丸久 氏を除いて名だたる先達らが成長・発展の宜しきに捉えているが、こちらの経験でも、あれは背景や昇り方に何かしらマイナスの要素を伴う。万々歳の昇り方ではない。そもそも、1【乾爲天】も 35【火地晉】も 53【風山漸】もこの【地風升】もプラスに発展する卦象ばかりとは、おかしい。
 だから、大学で漢学者になるとハク付けに易経の経伝の解釈本、即ち、注疏(= 古書を注釈した書物である注を更に解釈した書物である疏)を出したがるが、彼らには易占の経験がない。易の経伝は、儒教の聖典にされる前、そもそも支配者の占いのために永い年月をかけて研き上げたものであって、易の機構は「繫辭傳」で云う形而上の向こうにある。その占例分野の研究もなしに、字句を他の古典の用例からのみ解釈してどうなるの。それこそ偽書だろう。



ラーマクリシュナ
2014/ 10/24-10/25
 今、読んでいるのは「抜粋ラーマクリシュナの福音」。 http://www.amazon.co.jp/抜粋ラーマクリシュナの福音-ラーマクリシュナ/dp/4931148492/ref=sr_1_8?ie=UTF8&qid=1417288316&sr=8-8&keywords=ラーマクリシュナの福音
 聖ラーマクリシュナは釈迦・シャンカラと並ぶインドの覚者。近代の人。釈迦・キリスト・マホメットともあちらで一体化した、と書くと瞬時にあちらさま扱いされそうだが、日本人の多くが知らないというだけ。
 こちらが永く易占を研究しているのは透視などの術としての魅力もさることながら、宗教的能力のない身でも形而上の摂理と日々やり取りできるため。“易神さま”には幸い好かれているらしい。
 ただ、道の士が求めるところの“神を観る”という最終目標にはこの方向はまどろっこしい。霊的な成長を言えば、この津波と原発事故から覚えたところの方がむしろ大きい。
 結局、聖ヴィヴェーカーナンダ(元オウム真理教の上祐 史浩がこの生まれ変わりだと称していた)の言う神に達する四つの方法(ギャーナ、ラージャ、カルマ、バクティ)の前三つはそれと知らずにやっている。言うところのことが分かり難いというものではない。
 神を愛することが何よりも悦と感じられるというバクティが感覚的に分からないので、この道を能くしたラーマクリシュナの読書と。
 ギャーナは知識的理解によるアプローチ。
 ラージャは所謂ヨーガのことで、こちらは才能がない。
 ウソ・イカサマ・隠蔽の輩をとっちめて世の中を宜しきにもってゆこうという活動はカルマそのもの。修道士のようにひたすら務める。ただ、これは、世の中の喧噪を嫌う霊的成長に繋がるやら。


 特定の宗教をやっていない。大きな教団の活動など毛嫌い。
 ただ、無神論者というのは分からない。自分がこうして眼でものを観られる能力もそうだし、内蔵が複雑に機能・代謝していること自体、自分が拵えたものではない。人工によるものではない。
 太古に無機物から有機物ができて蓄積し、その反応によって生命が誕生した、とする化学進化説にしても、何かしらの意思の存在なしにそんな風に進展すると誰も証明できていないだろう。映画のターミネーターは、特定の個人を探して殺すために自分で電話ボックスの電話帳を捲って氏名・住所・電話番号を記憶し、成長してゆくが、これには人間によるロボットの開発やプログラミングがある。
 この神というか宇宙の遍き摂理をストンと体感したいし、その成せるところの意味を理解したいし、自分の本質は何でどこから来てどこへゆくのかを知りたい。これは古来 人間の普遍的根源的欲求。そこへ達する方法を提示するのが宗教(この肝心な点でほとんどの宗教団体はインチキ)。
 世の中、これ以外のことには大して興味がなくなった。多少 霊的に成長したか、歳か。



予 感
2013/ 8/16(改 8/18)
 フと誰それについて嫌な予感が湧いたと思ったら、その通り間もなく人が死ぬ、猫が死ぬ。一筮 執るよりずっと確かだ、自分の中では。易筮をやっているせいやら、この感覚は年々 冴えている。
 この頭の中に湧いて出た暗雲は払おうと思っても決して消えない。これは誰しもあろだろう、よく注意を払っていないだけで。
 これは消そうとしないで、自分の中で九字などでこれを渾身で斬れるとするとどうなるやら。
 一遍、この暗雲を怨嗟の感情で練り固めて、200 万 福島県民を陰惨な末路へと放り投げている某政治家の額に練り込んでみようかね。

 逆に、宜しきことの予感の気運というのは何だか弱い。その上、自分の中で大事に維持していないと去って行ってしまう。

 どちらにしても、時限がある。
 結局、森羅万象、無より出でて、無に帰する。



セレソン轟沈の蔭に
2010/ 7/ 3
 南アフリカW杯。アルゼンチン代表のWEBサイトで、試合の度に決勝トーナメントの表の画像を更新する。
 夕べ遅く準々決勝のオランダ vs. ブラジル戦(7/ 2)が始まると、グループ リーグ第2戦の日本戦で見せたオランダの繋ぎ・攻め上がりがギクシャクして見劣りするほど、ブラジルのF.B.は洗練されて上質だ。しかし、日本で五指には入るアルゼンチン狂としては、天敵ブラジルには何としても決勝前に沈んでもらいたい(笑)。
 アルゼンチンはホントにブラジルには負け通し。ドイツW杯 南米予選 第15節(2005/ 6/ 8)ホームのラ ボンボネーラで前半で3−0でノックアウトにしたのを最後に、コンフェデレーションズカップ 2005 決勝でも(ホセ=ペケルマン監督が自由に遊び過ぎた)、必勝と思われたコパ アメリカ 2007 決勝でも(全くの“B軍”相手にピカピカの“A軍”でもってダメ)、二度の南アフリカW杯 南米予選でも、負け(ディエゴ=マラドーナ監督下ではホームでも負けた)。それも、毎度2点以上を空けられて、まるでカモ状態。
 アルゼンチンはユースでは強くて、リオネル=メッシ[FW]の登場などで、2004 年以来、二度のオリンピックとU−20W杯を制して、世界に君臨しているが。

 それで、このオランダ vs. ブラジル戦、いつもは試合が終了してからトーナメント表の更新作業に入るのに、前半、ブラジルがロビーニョ[FW]の先制弾を決めると、フと変な気が起きて、ブラジルがベスト4に駒を進めたようにトーナメント表を画いてしまった(↓)。好調なブラジルが先行したからではない。そう画いたら、勢い逆の結果に動いて行きそうな感覚が来たからだ。卦にすると、59【風水渙】|||(← 左を上にして見る)? 内卦は“神懸かり”の【巽】でないと具合が悪いが。
 そしたら、キタキタ。後半、オランダが同点から逆転へ。俄然 攻撃が繋がって回り出して、ブラジルは10人になって前半とは見まごうばかりに我を失って機能不全になり、そのまま終了のホイッスル。退いてカウンターだったのが、前がかりになると、守備の堅さは世界屈指のブラジルでもこうなる。
 これ、もしロビーニョのゴールの後、「ああ、やっぱりこれは違う。このままブラジルだ」のように何か嘘くさい感じを伴った“負の感覚”があらためてよぎるようなら、ブラジルの勝ちで終わった筈。だが、それが起こらなかったし、自分の中でオランダ勝利の流れを最後まで握り通せた。



 こういうものはいつもことの直前に降りて来る(こちらは予兆の類はこうした機(キザハシ)を得るだけだが、うちの祖母は、ことの数日前に、クッキリとした三次元の映像として日常的に観ていた)。そして、これを他人にしゃべってしまうと、そこから“負の感覚”が動きがち。
 そうすると、降りて来た感覚だけがこのことの本質であって、このひねくれたトーナメント表は験担ぎ?の状態を支える単なる道具なのか(参考)、或いは、ある種の呪符でもあるのか。

 現代物理学で言えば、ブラジルが勝って終わるタイムライン[時間線]もあるし、引き分けも、オランダが 100 対1で勝つタイムラインもあり得る。更に、ブラジルとオランダが対戦しない、或いは、ブラジルが南米予選で敗退した、或いは、ワールドカップ自体が存在しないタイムラインもあり得る。自分は意思の働きによってオランダが2−1(0−1)で勝つ未来に進んだのかも知れない。このプロセスに因果律がないことはサイエンスと相容れないと思うが、それでは、何ゆえにこの稿を書いている私はオランダが2−1で勝った未来に来たか、と色々 考えることになる・・・。
 これは何もバカな話ではない。玉音放送の終戦の詔書に筆を入れた陽明学の故・安岡 正篤 氏が一言居士のようにおっしゃっていた立命(←→ 宿命)の説とは、つまりは、そうした摩訶不思議なメカニズムに拠っている。周易に云う三才の天・人・地において、天事は天理天命により動かないとされるが、人事はまさに人の意の為せるもの、即ち、自分の命を運んでゆける[運命]。「運」には車が付いている。だから、宿命説で完結してしまっていて出口のない占術・占法の類はおかしいと言わざるを得ない(呑象[高島 嘉右衛門]翁も三才の天・人・地の考え方を筮としている → こちら)。


 ところで、昨年末、オランダで現代芸術をやっている従姉妹が横浜での展覧会に参加したので、その男の子供たちがオランダから遊びに来たが、「フットボールには関心がないんだ」と言っていた。勿体ないワ。彼の地は次の日本代表監督の候補に名前が挙がっている(多分そうはならない)マルセロ=ビエルサが畏敬するほどのフットボール先進国。



祖母の残した水晶球
2009/ 8/30
 眉間で自由に“気”を錬れるから、そこの第三の眼が開発されるかと思えば、それはそれでやらないとダメらしい。で、無精だったのが、近頃なぜか無性に開眼に気持ちが向いていて、筮竹を握って瞑目していてもそちらに向いて気がしまう。占機ならぬ開眼機か。

 
東洋書院

 仁田 丸久 氏の「うらおもて周易作法」の中巻に水晶球凝視についての章が、息抜きのようにして、ポツンと挟んである。戦前、仁田 氏の実兄はヨーロッパ航路の船の機関士で、イギリスで水晶球占いをやる女性に過去のことを悉く的中せられた上、その宜しくない映像から帰国したら船を降りるように勧められたが、第一次世界大戦が激しくなって来て止むなく乗船を続けたら、ドイツの潜水艦に船が撃沈されて帰らぬ人になった、と。このことがきっかけで、仁田 氏は水晶球凝視に40年余。多くを語らないが、易占では勘が非常に鋭くなったという。
 水晶球凝視[Crystal Gaging]は要は第三の眼のスクリーンになる目蓋の裏の代わりに水晶球を使うもの。仁田 氏は、信念を持って一心不乱に3ヵ月も続ければ見えるようになると、具体的あるいは象徴的な映像がハッキリ見えるとおっしゃる。
 不思議な現象には違いないが、易占で日々こうして応験を得ることだって甚だ不思議だ。

 さて、亡くなった祖母の飾り戸棚に直径10センチはある水晶球があったのを思い出した。天然モノか、溶錬による人工モノなのか・・・天然モノの価格を確認したら、質に拠り、この大きさなら20〜30万円はするし、包有物もなくてキレイだから、チと怪しい。
 天然モノと人工モノでは分子配列でも違う? 仁田 氏は、水晶には磁気・磁力の働きをする「オッド」なる物質(?)が含まれていて、そのオッドが媒介して占者の脳髄・視神経に作用する、と説明される。水晶は直射日光に当てると、オッドの含有が発散してしまう、と。ん〜、人工モノならオッドはないのか、映像投影に使えないのか・・・。
 真偽を“易神”さまにお尋ねしてみよう。



占 題
 祖母のかたみの水晶球は天然モノか

三 遍 筮 法
得 卦

19 地澤臨
伏卦 60 水澤節
互卦 24 地雷復
錯卦 33 天山遯
綜卦 20 風地觀
 六五、知にして(九二に)臨む。大君[六五]の宜しき也。吉。
 象に曰く、大君[六五]の宜しきとは、中(= 中庸)を行ふを之 謂ふ也。
 
 驚いたことに「知臨」。五爻の天子であり、柔であり「中」を得ていて、大なる智慧をもって下の剛である「中」の二爻の賢人と相応じている。天下の智慧をもって自分の智慧とする、と。
 これは水晶球凝視のメカニズムそのものだろう。【地澤臨】は【大震】で、“球”の象であり、“電気・磁気”の象であり、“応答する”。爻辭「知あって臨む」その「知」、つまり、水晶球に投影されるのは、相応じる二爻の自分自身の潜在意識であり、偏在する集合無意識のようなものである。五爻自体は外卦【坤】の主爻で、“容器”であり、“包容・蓄蔵”し、“労役”する。
 【地澤臨】は上から俯瞰で臨み観ること。こちらは綜卦【風地觀】で、下から仰ぎ見る。
 この水晶球が天然モノか人工モノかは上手く判断つかないが、この占事は要は水晶球が使えるものかどうかだから、それについて示されたものらし。
 生前、早朝の寝床の暗闇の中、天井から降りて来る花籠や窯などの映像を見ることで数日後の慶事・凶事を掴んでいた祖母の置き土産だけのことはある。祖母は、それは先に亡くなった祖父が見せるのだろう、と言っていた。


 尚、水晶球に映った映像は、近景は現在、中距離は近き未来、遠景は遠い未来、に当たるとのこと。
 それから、映像は当人が分かるものが映し出されるが、これはこういうこと、あれはああいうことと、各者で定則化することになる。フロイトの夢判断に似たり。



周易うらおもて
2009/ 8/28
 そろそろキチンと靈學の方をやるかな。と思っても、居住まいを正して鎮魂法なんかの本をみっちり読んで、日々 行に励む、なんてことが進歩効率的でないことぐらいは分かっている。アルファベットを知らないと英単語を覚えられないように、感覚での経験とそれの自覚がないと何事もスルスル入って行かない。

 
 
東洋書院

 で、故・仁田 丸久 氏が易占の実力養成に資するものをとして続けられた数十年前の講義の記録「うらおもて周易作法」(東洋書院 刊)を手に入れたので、もっと古くて回りくどい「周易裏街道」のことを思い出して棚の奥から取り出して読んでみた。昔は神保町の原書房の高い棚の上に 1,000,000 円辺りの値札で置かれていたという本。すると、四角四面なことばかりやっていたその昔はチンプンカンプンに感じたのが、面白いように読めるでないの。
 これは64卦ごとの読み物だが、至るところで靈學や神秘世界に入り込んでいる上に、下巻の末には「開運秘策」・「周易裏街道 分かれ道」・「秘伝秘解前言」なんて章もある。「うらおもて周易作法」の方は別冊(上下巻)が全く東西の秘術や超能力に関する内容だし、どちらが本筋だか分からない。
 この仁田 氏については、凡百の方には非ず、一爻々々ジッーと眺めて考えている様子が窺える。先に結論ありきで小成卦なんかの解釈がコジツケじゃないかと思われたり、まあ、ないでもないが、読み切れなかった自分の過去占を照らしてみると、膝を叩くこと一度や二度ではない。この両書は間違いなく日本の易史における奇書である。今までおぼろげだった「易は靈學のおもての顔(の一つ)である」ということもつらつら掴めて来た。
 ただ、どちらも高価な本なのに、その“うら”の掘り方が文字数の割にはところどころあっさりだったり、所々 肝腎の部分が伏せ字のままだったり。

 それと、仁田 氏が機関誌「古 道」に筆を執っていた、神道天行居の友清 歓真 氏。易占について何か残されていないかと八幡書房の全集を引っ繰り返したが、目次を眺める限り特には見当たらず。他年81部だけ刊行する「真易天行伝」云々とそれらしき記述があって、それは手元の全集には入っていないようだが、あるいは、お書きにならなかったか。


 さて、ある仕事で、全体モチーフ、具体的には撮影ポイントをどうするべとずっと考え倦んでいた。それで、何とはなしに仕事の過去占を辿りながら「うらおもて周易作法」を読んでいたら、47【澤水困】五爻の辞「乃ち徐(ヨウヤ)くにして説びあり。用て祭祀するに利あり」のところで、こちらは神社仏閣などでいけばいいのだとピンと来た。さすれば、共に説びあり、と。思わず膝を叩いた(表現が古いか)。
 仁田 氏の言う、占筮の前に陰陽未分化の混沌の状態を頭に思い描いたり、日ごろ水晶凝視をやったりしていると、この“ピン”が活性して来る、というのは事実だ。今回の場合、こちら側の気付く感度がアップしたというよりも、「うらおもて周易作法」のその部分を読む気にさせる何か =“うら”のメカニズムが働く、あるいは、運命論的に言うならそのように読むようになっている、といった方が合っているかも知れない。
 易の効用はプレジデント社の本のような辛気くさい処世術ではない。そんなものはペラペラの“おもて”であって、そこには易の大本領である応験の妙がない。


 ところで、その“ピン”のことに関連して。「周易裏街道」の「神通路登攀録(私の靈術修行の経路)」に“うら”のメカニズムについての考察を見付けた。こちらが丁度3年前に「『運』を育てる」で書いたことと重なる話:
 私は戦時中の物の乏しいときに、地卵13個を或る人から貰ったことがある。ところが、その夜 電気がショートして、近所の人が直してくれたが、非常に親切に直してくれたので、お礼にその13個の卵をあげてしまった。そこで私は考えた。今日 先に13個の卵を貰ったのは、後で電気がこうなって直してもらうから、その人にお礼をあげるようにと、貰ったのだろう。
 ところが、しばらくすると、明石から人が来て、卵を持って来てくれた。それが13個だった。あっ、これは神さんが私に返してくれたわけか、と思ったが、しかし、私が卵13個を人にやった時は、もう明石の人は私に卵をやろうと思って電車に乗っていたわけだから、当たり前なら26個 貰えるところが、13個に減ったわけだろう? しかし、又そこで私が考えるのに、もし私が13個 全部をやるのが惜しいので8つやったとしたら、電車に乗って来つつあった人は、電車の中で、ふと考えが変わっただろう。13個もやるのは惜しい。それよりあの病気で困っている人のところへ4つ持って行ってやって、あと9つを諏訪山(= 仁田 氏のところ)へ持って行こうと考え直したかも知れない。
 どうも時間だけでは量れぬものがある。これ以来 時間に拘泥せぬようになった。

 そこで、私の「『運』を育てる」での疑問:
 (省略)ここでもっと不思議なことがある。その[肯定的な感覚]があった選択肢に対して疑うように『いや、やっぱりハズレじゃないの?』なんて意識的に上塗りしてみたりすると、これが結果 不正解に変わるのだ! 初めから決まっている正解がこちらの意識次第で変わるわけがないじゃないの。それじゃ、「ハズレじゃないの?」とこちらが意識を振り向けることが始めから決まっていたということか!?

 こちらが「ハズレじゃないの?」と思うまでのことは、この世の律で言うならば、初めから決まっていた、あるいは、こちらが思い付くことは何者かによるもの、ぐらいにしか言えない。これはシンクロニシティー現象から導かれる論理で語り切れるものか? 同時に、ここに運命の流れというものの一端を垣間見る心地がする。
 易占で神明が過去・未来の時間に関わりなく示されるのは、このことと通底しているものやら・・・。

 また、仁田 氏は「周易裏街道」の同じ章でこんなことも:
 もし我々が何か一つのことをやるについて相談相手が欲しい時は、この生気(エル)の世界に相談相手を求めたらよい。〜エルの世界では、昔の人も、今の人もそこには生きているから、そこから英智を引き出してくることが出来る。〜ここへ来ると、陰も陽も、彼も我も、神も人も、何もかもが一つになっているところの、唯一の根があるのだ。

 仁田 氏はこれによってか、戦時中、空襲の日時が分かって、知人に知らせた、と語る。
 このエルは、カール=グスタフ=ユングの言う集合無意識のようなものか。「陰も陽も何もかもが」だから、時空を含めた森羅万象を包摂する易の太極そのものにも思える。
 仁田 氏は易占のメカニズムについては、「鬼神と交流した人々が書いた易経を知るには、やはり鬼神の助けを借りなければなりません。易経は半分以上 鬼神の言葉であると考えてよいでしょう」とお書きになるぐらいで、まとまった考察を残されてはいないようだ。



「土 に 還 る」
2008/12/26
 去年・今年と、3人の身内と1匹の愛猫が鬼籍に入った。家に戻って来ない身障者の別のネコも もうこの世にいないだろう。
 亡くなると、あの火葬という醜悪な行為が待っている。つい二・三日前まで生きていた人、その姿形を気ぜわしいままに消滅させてしまおうというのだから、子供の頃はこの行為に理解がならなかった。こちら側の問題として、土葬は“あそこに眠っている”と存在を引きずりながら時間をかけて心を癒して行くが、火葬は焼却窯に見送くる残酷さがあり、消失感がある。衛生的な行為だというそれの何倍もおぞましさを覚えて、嫌だ、私は。社会の慣習というものに一々 尖るようになったのは実はこの記憶からかも知れない。ダメな相棒だったために死なせてしまった愛猫はいつも遊んでいた庭先にそのまま葬った。
 私の田舎では火葬だと、多くの場合、焼骨を骨壺から出して、墓石の下の土底にご先祖の骨とごちゃ混ぜにしてしまう。骨壺ごと収めればよいものを、なぜそんなことをするのかと聞けば、「人は死んだら土に還すものだから」と判で押した答えが返って来る。それなら、南方で亡くなって「遺骨・遺骨」と言う戦争遺族に「地球は一つ。土に還るのだからいいじゃないか」と言うだろうか。墓碑の下の土なら良いという話か。違うだろう。これは土地の慣習というものと臨終後の一連のせわしさがまともな判断をおかしくしている、ということだ。骨をご先祖のものと一緒くたに、ゴミ箱に捨てるようなあれ、こちらには理解できない。

 「土に還る」? 植物じゃあるまいし、人は地面から生えて来るわけじゃない。「土に還る」の言いはそれこそどこから生えて来た言葉か知らないが、「天」は神仏の世界、「地」はこの現界との古来の概念からすれば、神道式に言うなら、大神靈の分靈である一靈一魂だか何だかか知らないがそれが去った肉体は母体から生じた全くの「地」のものでしかなくなるので、「地」を「土」にしてしまって「土に還る」となったものやら。すでに「地」だけでしかない遺体、それをさらに「土に還す」として物質の土にしようとするから、おかしく感じられる。
 そもそも「肉体は土に還すもの」などという道理があるだろうか。逆で、埋めたり撒くから土になるだけのこと。別に肉体はどこへ「還」ったっていい。
 神道が概念形成に取り込んだ易の八卦では「大地」・「土」は【坤】から取象したもので、この卦は同時に「母」であり「腹」だ。昔、そんなものらが一緒くたになったのは解らないでもない。

 というわけで、土葬も火葬も墓地埋葬法により市町村長の許可を得る必要があるが、国民の宗教的感情よりも墓地のスペースの問題やら公衆衛生やらが優先されて、全国的に土葬は認めない傾向にある。
 それならそれ。人を失った後は、遺骨は砕いて家族で食べてしまえば感情の上ではスッキリする、と思える。自分の体がお墓になるようで、それがどうなのか考えたこともないが、散骨して墓が空っぽになるよりは好いだろう。初七日が過ぎても、粉薬のように飲み続けることになるだろうから、精神的には却ってきつそうだが(笑)。



運を育てる
2006/ 8/17
 昔、土曜日の夜、TBSで大橋 巨泉 司会の「クイズ ダービー」という長寿番組があった。漫画家のはら たいら氏や女優の竹下 景子さん、学習院大学 教授の篠沢 秀夫 氏がレギュラー回答者を務めていて、好きな番組だった。

 番組では毎回 難しい問題が8つ出される。内2つが3択の問題で、この3択問題でのこと。
 選択枝はどれが正解とも言いがたい。それで、気が向くと自分でこんなことをやっていた。
 まず、頭で考えて選択肢の内 一つを削る。それで、残った二つの内、正解と思う方に「こっちかな?」と自分の頭の中で振ってみるのだ。振り返ると、無意識に何者かに問うているところもある。すると、温かいと言ったらいいのか、ヨシヨシヨシと言うのか、「イケる!」というぽわ〜んとした感覚が自分の中で広がる・・・[肯定的な感覚]
 そして、念のためもう一方の選択肢の方に「やっぱりこっちかな?」と振ってみると、しぼむと言うか、白けた・ウソ臭いと言うかそういう感覚がある・・・[否定的な感覚]
 すると、[肯定的な感覚]だった方がまあ必ず正解なのだ。
 また、両方とも何かハッキリしないでベターとした感覚があると、最初に削ったものが正解。
 三択の女王・竹下 景子さんはどんな感覚で答えを出していたものやら・・・。

 ここでもっと不思議なことがある。その[肯定的な感覚]があった選択肢に対して疑うように「いや、やっぱりハズレじゃないの?」なんて意識的に上塗りしてみたりすると、これが結果 不正解に変わるのだ。初めから決まっている正解がこちらの意識次第で変わるわけがないじゃないの。それじゃ、「ハズレじゃないの?」とこちらが意識を振り向けることが始めから決まっていたということか? 「シュレーディンガーの猫」の話のような。
 こういうワザで正解を得ること自体、原因があって結果があるという因果律では説明が付かない。自分の意識と先の成り行きにも因果律とは異なった摩訶不思議な仕組みが存在することが分かる。

 それと、この「イケる!」というぽわ〜んとした感覚はシャボン玉を扱うように自分の中で維持しないといけない。維持しないと、大体は否定的な結果に終わる。これは先に書いた運を開く仕組みと同じ。つまり、このぽわ〜ん感覚が運(ここでの運はちょっと質が違うが)を掴んでいるこということだ。

 以上は意識的にはちょっと出来にくい。リラックスしていて、「ヨシ、やってみっか」という気が起きた時だけ。易占で筮を取ってみようとする潮のことと同じ。
 また、道徳的な物差しで見て悪い事柄ではこの感覚機能が働かない、ということでもなさそうなのだ。そんな良い悪いなど所詮 人間社会のシロモノ。易を含む天地自然の摂理の上では、本質的には、前向きに物事を開いていくのは良いことであり、運を招く。物事を閉じて捉えるのは悪いことであり、そこには運がない。
 易占で占断する場合も狭い儒教的な価値観など持ち込んだらおかしくなる。

 以上は易占をやる前から存在する感覚。易占を始めてからはこれらが増幅されたというか、例えばシンクロニシティー現象などはしょっちゅう起こる。
 例えば、先週モデルの井上 訓子さんの古いインタビューを読んでいて、たまに単発でファッション誌やメイク誌に出ていたということが気に留まったのだが、昨日 別の件で取り寄せた古い女性誌を開いたら、メイクのコーナーに井上さんがズラ〜リ。井上さんを雑誌・新聞で見かけること自体 至極まれなのに。

 さて、秘訣。こういう愉快なことがあった時「そんなの偶然」と捉える人はセンスがない。「肯定して捉える」ということは望むことを実現するための土台だ。シンクロニシティー現象があったら「これは自分が目標の大学に受かる慶事だ」でも何でも、自分の中で何かウソ臭い感覚が起こってこない限りそれを肯定してよい。
 但し、条件があって、目指す目的に向かって懸命に努力し、且つ、この好い感覚を自分の中でキープ出来ること。すると、必ず望むような結果となる。キープとはどうやってするか? 人は何かを乞い願う時、個々の中で「○○できますように」と言葉で言うだけでなく、息を詰めながら必死にそれを掴もうとしているだろう。その辺り。

 これはジンクス・験担ぎと同じ仕組み。大切な試合で勝った時に使っていたもの(バットとかシューズとか)を身につけるとは、身につけること自体が重要なのではない。身につけることであの時の運気を握っていると、その感覚を自分の中でヨシヨシと維持することが大切なのだ。
 別にバットやシューズはなくてもよい。それを持っていないと頭が否定に振れるならば、いっそ捨てること。それで気分が晴れる。

 ここで忘れること勿れ。幸運というものは、無から自然発生するものではなく、何らかの存在のおかげであったり、何者かが介在してやってくるもの。ご先祖なり自分を守護する存在が手伝っていないとは限らないのだ。物理的な存在が存在の全てだとしたら、この世に不思議なことはない。思い当たる存在に強い感謝の念を持つ時、運はますます自分のものとなる。



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