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8/26(土)18:30〜18:55 本仮屋 ユイカさんがMCを務める TOKYO FM「三菱地所レジデンス Sparkle Life」。先週に続いてゲストは武田 鉄矢さん(74)。
脱藩した無職の浪人が、アヘン戦争を推進したジャーディン マセソン商会(英)の “死の商人” トーマス=グラバー(蘇)と組んでその営業マンとなり、西郷 隆盛や薩摩藩家老の小松 帯刀らに面識を得ると長州との同盟締結の工作に加担し、これら雄藩による倒幕戦争のために、仲間で各藩を回って大砲・銃・弾薬を売れるだけ売った。グラバー商会は兵器取り扱いの国内最大手に。 第一次資料分析の第一人者でスタンフォード大学フーヴァー研究所の西 鋭夫 教授は “日本人は何を見とるんじゃ” とばかりに。教授は明治維新は95%が作り話で、歴史を俯瞰すれば、坂本 龍馬は西郷らの使いっ走りに過ぎない、と見ている。 坂本が「五箇条の御誓文」(1868)に至る「船中八策」を書いたというのも、維新後に誰かが創作したことで決まりのようだ。 大政奉還(1867)をしたのに、坂本らの愚行が南東北まで続く大勢の無用な殺戮を行わしめ、日本武士の誉れと讃えられた会津藩を女・子供まで鮮血と共に討ち亡ぼして、ここを呪いの地に変えた。藩主の松平 容保は常に幕命で動き、徳川 慶喜に従って恭順の態を示していたものを、追い込んだ。藩主が時代を見るに敏ではないだけで、あの狭い地域だけで武家だけでなく数千人が殺された。生き残った会津の武家は全て極寒で耕作もままならない下北半島の先端へと追われた。 NHKなど勿論 取り上げない2千を超える会津の武家の自決、婦女子への強姦…会津の外では支那大陸や朝鮮半島の連中と何ら変わらない下郎が武士をやっていたわけだ。 こちらが高知市の桂浜に立ち寄ったのは 2017/ 6。歴代の小説家らの虚像を信じ込んで、あんなバカでかい龍馬像を建てて。
それが、西郷 隆盛は孝明天皇の勅命による第一次長州征伐(1864)の陣頭指揮を執って、長州藩の三家老に切腹、四参謀に斬首、藩主父子の謝罪、山口城の破却…を強いた張本人であるのに、政権奪取の夢にコロッと寝返って、長州藩の実権を握った木戸 孝允[桂 小五郎]と手を握った。大久保 利通 共々、第二次長州征伐(1866)の勅命を無視、勝手に偽勅にして。 それどころか、全国的な倒幕戦争に乗り出した薩摩は土佐と共に会津藩皆殺しの先頭に立った。戦闘は中通り地方の白河でも、二本松でも、この浜通り地方のこちらが住んで来た4つの市町でも。これを会津が薩摩にやったのだったら、今頃 鹿児島県民はどうだったか? この何でもありの裏切りは薩英戦争(1863)等々で世界の大犯罪国イギリスから学んだの? 南国人の気質?(司馬 遼太郎 説) 東北での戦争に西郷の姿は見えないが、こちらは東北人とは何か違う薩摩人の気質が今もよく解らない。 会津戦争で、薩摩の大将は軍略家の伊地知 正治。
そして、志願して西郷征討軍の旅団の参謀となり、前線に立ち、西郷軍に取り囲まれて攻撃を受けている最中の本丸の熊本城に選抜隊を率いて真っ先に乗り込み、熊本鎮台司令長官の谷 干城(土佐)らを救出。谷は戊辰戦争の日光口の戦いでやり合った相手だが、山川は土佐藩に対しては板垣 退助が会津藩の処分に見せた温情・配慮に痛く感じていた筈で、谷には戦後に自身を陸軍に推薦してくれた恩義を感じていだろう。 西郷征討軍には、南阿蘇に散った元家老の鬼の佐川 官兵衛(会津戦争では藩内の主戦派)、柴 四朗[東海 散士]・五郎 兄弟、元新選組 三番隊組長の剣の使い手の斎藤 一[山口 二郎]も全身火の弾と化して復讐に燃えた。 気性の激しい山川 浩、10年前のNHKの大河ドラマ「八重の桜」では似つかない二枚目の玉山 鉄二が演じた。 山川の妹の捨松は、初代陸軍大臣だった薩摩の大山 巌の後妻として嫁いだ。USAで10年 暮らした「鹿鳴館の貴婦人」。「八重の桜」ではオテンバのイメージの水原 希子ちゃん。尚、「捨松」とは12歳の彼女が渡米する際、母親が一度は捨てるが将来を期待してマツ、と咲子から改名させた。 夫の大山はその後 元老に列席し、元帥陸軍大将として日露戦争の満州軍総司令官を務めて(特に何もしなかったが)「陸の大山、海の東郷」と謂われ、公爵、国葬で送られたほど天井知らずに出世した。 物理学者の山川 健次郎は山川 浩の実弟。永く東京帝国大学総長を務め、御船 千鶴子・長尾 郁子らの千里眼を「手品の一つ」と結論づけた。山川 家はB型の家系のような。健次郎がA型なら半信半疑の結論にしただろう。 会津は薩摩・土佐との因縁が深い。会津攻めを主張したもの、実際の主軸となったのもこの二藩。 ところが、会津の人々に最も嫌われているのが長州。板垣 退助(土佐)が戦後に会津藩に対して重ね重ねの温情や公正な態度を示したのに対して、長州藩は現場の大将の大村 益次郎は会津攻略には消極的で、実際の戦闘にも長州藩は殆ど参戦していないが、木戸 孝允は降伏後の会津藩に対して厳罰を主張。明治の世になり、長州勢による金権政治や軍閥支配などもあったし、冷遇されて来た清廉な会津人には見下げられた、そんなことが大きいのかも知れない。
会津討伐を強硬に主張した下郎で、奥州諸藩には新政府軍参謀の地位をひけらかし、傍若無人で、会津藩を救う歎願を頭から無視し、非妥協的に諸藩に会津討伐の出兵を強要した。ために、諸藩から強く憎まれ、今の福島北町の旅籠で飯盛女と同衾していたところを仙台・福島藩士らに捕まって、阿武隈川の河原で首を刎ねられ、首から下を川に投げ棄てられた。満32歳。 このことが会津討伐の引き金になるが、その頃 奥州諸藩の重臣が参集していた白石会議(1868)に世良暗殺の報が届くと、「万歳々々」の驚喜に沸き返ったと言う。 そして、墓は別にあるのに、今も地元ではこんな輩のために毎年 慰霊祭をやっているが、原子力ムラからも好いようにされる東北人のお人好しここにあり。
大東亜戦争で、捕虜になった日本兵が、当たり前のことだが殺されないと知ると、米軍に恩を感じて、日本側の情報をペラペラと。米軍も心得ていた。 板垣 退助は後に自由民権運動の先頭に立って言論の府である帝国議会を作った偉人だが、維新前は一貫して武力倒幕を主張し、大政奉還論を「空名無実」と否定していた。 こちらはヒューマニストの板垣を決して嫌いではないし、東日本にポツンと福島県に河野 広中らの自由民権運動が拡がったのは板垣の影響だろうが、新政府の会津討伐軍の総大将がこの板垣で、会津攻めは彼の主張で決まっている。喧嘩っ早くて、何でも完遂しないと気が済まない。板垣、伊地知 正治、世良 修蔵がいなかったら、南東北でのあんな無用な悲劇はなかった。新政府軍に多数の銃砲があろうと。戦意が相手の戦意を生む。 また、後世、会津で薩摩に対して表立った感情が見られないのは、大勢の会津武士が復讐戦としての西南戦争に参加して散華し、首魁の西郷を自決に追い込んだことと、会津一のエリート才女・山川 捨松の大山 巌との婚姻があるからではないかな。 武田 鉄也さんの錯覚を生んだのは誰よりも司馬 遼太郎という小説家。歴史学者ではなく。朝鮮民族とか自分と異なる気質の人物に憧れを抱いて持ち上げる。かと思えば、偉人とされて来た人や権威を無用に貶めたがる。その創作が原因。 司馬は近世の人物をこういうキャラだと短文でクッキリ描く才能は一品だが、原稿の締め切りに追われて、史実のチェックが根本的に甘い。その上、当時に思いを致すことなく司馬の意識で筆を進めるから、行間に雰囲気など望むべくもない。読者がまるでその時・その場所にいるかのような錯覚に陥る吉村 昭の筆には逆立ちしても及ばない。 「坂の上の雲」では、日本海海戦と並ぶクライマックスの203高地の攻略で、乃木 希典が行き詰まって児玉 源太郎と第三軍の指揮を代わったの説は戦前から間違いだと指摘されて来ているのに、それでストーリーを作り上げて大失敗。ために、NHKからの大河ドラマ化のオファーを死ぬまで拒否した。 多作の文筆家は事実確認の点で総じて問題あり。 他方、武田さんは、自身がMCを務める文化放送「今朝の三枚おろし」で「八重の桜」を語っているが、誰が大量の銃砲・弾薬の売り込みに動き回って戊辰戦争を現実に準備したかについては触れない。 放射能汚染・被曝の問題では、原子力ムラと二人三脚の社会学者(自称)開沼 博を繰り返し持ち上げて、肝心要の問題には触れない。そもそも一つ一つの現実を何ら知らないからだが、大勢の健康・生命に関わるイカサマ三昧の「安全・安心」の側に身を寄せてどうしますか。
戊辰戦争で祖母と母・姉妹を自刃で亡くし、戦後は父・兄らと下北半島に移って辛酸をなめながら、伊藤 博文らが明治天皇だとしてすり替えた大室 寅之祐に「朝敵」にされた会津藩で初めて陸軍大将になった人。長州閥の陸軍もその人格・武勇を認めざるを得なかった。 その人間・柴にして、西郷や大久保利通等の非業の死に対しては「当然の帰結であり断じて喜べり」と語るほど、会津武士の薩摩への恨みは骨髄に達していた。 近く車の運転を再開させたら、会津に出向いて、美しい日本庭園が広がる恵倫寺(会津若松市)の柴 五郎の墓前、阿弥陀寺(会津若松市)の斉藤 一の墓前、上席家老・西郷 頼母の妻の千重子ら自決した一家21人が葬られた善龍寺の墓前、法界寺(会津坂下町)に首級だけ眠る中野 竹子(「八重の桜」では黒木 メイサが演じた。上手いキャスティング)の墓前と終焉の地の涙橋へ、まずは参って、檜の線香でご焼香を。 また、会津の郷土史家には、当時の会津人には伊藤 博文(長州)が明治天皇としてイスに就かせた大室 寅之祐に「朝敵」されたとの疑いがあったのか、そんな史料があるのか、そのことが長州憎しに繋がっているのか、窺ってみたい。 ちなみに、3.11の少し前、明治天皇すり替え説を易に質している。 20年以上前、うちの両親と母の姉夫婦との5人で会津若松市内を回り、飯盛山を降りる途中4人が並んで歩く姿を後から撮った時、将来この中の誰が亡くなった、また一人 亡くなったに出くわすのだろうなと思ったもの。その写真もネガも津波に消え、遠からず4人目が天に昇ろうとしている…時間は確実に前に進んでいる。 さて、一介の脱藩浪人の龍馬が、戦争を担保する兵器を売るグラバーの営業マンになったとはいえ、「船中八策」なんてものを自ら拵えた上に、自律的に動いて西郷と木戸に薩長同盟を結ばせた、は史実が殆ど確認されていない時代に空想と伝聞で拵えられた虚構。 小松 帯刀がよく動いて同盟の重要なポイントを仕切っており、龍馬は彼らの意に沿って武器商人として動いていた、というのが今回の東北戦争に関わる部分。 西 鋭夫 教授の言う歴史を俯瞰した場合にどうか、と。
この占は、龍馬が誰との関係で薩長同盟に動いたか、を質している。
この「章」の六二は内卦【離】の主爻で、龍馬にとっては何やら非常にありがたい “手紙”・“契約” のことではないかな。それによって明治維新のことなのか慶びあり、その名声が世に広まるので、国運に乗じること吉。 筋書きを追うと、六五は裏に 49【澤火革】||||(← 左を上に。以下 同じ)の革命の気運 来たりで、六五は「宜シニ日中ニ-」豐大の卦の定卦主の陽位なのに、陰爻の暗愚でままならぬ。 併し、【澤火革】九五は爻辭「大人は虎變す」だ。 この時、下の六二の進取の者より、国事なら「倒幕して国権を朝廷に奉還せよ」なのか「戦争に備えよ」なのか、何やら革命のことで提案あり。六五の龍馬はこの者を抜擢任用して百事を旧から改め糾し、世の耳目を一変するに至る。 すると、六二とは【離】の “武器” に関わる者であり、二〜四爻の互体【巽】で陰に潜んでおり、「章を來す」とは外から物資を摂取して利用するの意味なので(逆は2【坤爲地】六三の「章を含む」で、内に道徳・才能を包む)、これはトーマス=グラバーのことになるだろう。即ち、龍馬は誰よりもグラバーとの関係で事を為して来た。脱藩の頃から国事奔走のつもりはあるが、薩摩藩は謂わばその取引先。 坂本 龍馬の歴史的意義を言うなら、多分 小松 帯刀とグラバーとの間を繋いだぐらいのもの。 |
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