|
|
明治の元勲の伊藤 博文・山県 有朋・岩倉 具視らが、北朝の皇統を繋ぐ孝明天皇を殺害し、皇子の睦仁親王を殺害したか比叡山に隠したかして、長州藩の田布施(= 山口県 田布施町。元首相の岸 信介・佐藤 栄作らを輩出した。こちらも 1996 に訪ねた)で代を繋いで来た南朝の末裔で伊藤 博文の舎弟の大室 寅之祐を東京に皇居に迎え入れて明治天皇に仕立てた、という主張のこと。 これ、陵墓を開けて遺伝子検査をやるわけにもゆかないので、あり得ないという決定的な根拠はない。 逆に、伊藤 博文が死んで室町時代からの南北朝正閏論が起こると、北朝の血統の筈の明治天皇が南朝を正統とお定めになり、南朝の忠臣だった楠木 正成を大勲位に次ぐ正一位に祭り上げ、「大楠公」と呼んで、皇居外苑に立派な騎馬像まで置くなど、首を捻ることがまことに多い。この主張は今に始まったことでもないし、何とも真実味がある。 この入れ替わりのプロセスというのは、鳥羽・伏見の戦い(1868/ 1 )で長州の軍隊を率いた大室 寅之祐が睦仁親王が脱出した京都御所に入って、本物に成り代わり、ここに維新と成す、と。そして、子供の頃はひ弱で頼りなげと見られていた睦仁親王が堂々の巨漢となって東京に現れる。その前と後とでは、顔の疱瘡の痕がなくなり、利き腕が左に変わり、などの指摘がある。 昔、家を継ぐ長男は心身共に資質が問われた。まして、天皇復権の王政復古をやるぞと決めて、その頂きに立つ人物を描いた時に、実際の血筋が二の次になることはあり得るだろう。 ということで以下 考えてゆく。 ここで皇統が入れ替わったとするには2つのステップを踏むことになる。一つは、大室 寅之祐は南朝の後醍醐天皇の子孫である光良親王から四百数十年を経た24代目だというが、血統の点で事実であること。もう一つは、寅之祐が京都御所におわした皇位継承前の睦仁親王[京都明治天皇]にすり替わること。 一つ目の点は、大室家では光良親王が 1400 年に田布施に落ち延びたことになっているが、江戸後期の頼 山陽が作ったという家系図では大室家としては寅之祐より4代前まで遡れるだけのようで、南朝の末裔というのは大室家の言い伝えである。証拠能力のある品なども残されていないようだ。また、そもそも、寅之祐 自身は母親の再婚に随って大室家に養子に入っており、天皇の血統はない。即ち、正確な意味で皇統の入れ替わりはあり得ない。 二つ目の点では、これを直接 証拠立てるものがないので、寅之祐を明治天皇に就かせる目的を考えてみる。明治を切り開いた元勲らの立場になってみれば、270 年近くも続いた徳川幕府を倒して幕藩体制を廃し、天皇を頂く立憲君主制のようなところを考案したが、孝明天皇の勅令や考え一つで賊軍にされて天下が従う…永年この天皇の尊皇攘夷に手こずって来て、これでやってゆけるわけがない。それならいっそのこと殺して、都合よく動かせる者を就ければ好い。古来、為政者にとって天皇は己が身分や legitimacy を保障する存在だが、放置すれば自身の親政に傾くわ、公家その他の勢力が利用しに掛かるわ。だが、もう畏れ多いもへったくれもない。西郷も岩倉 具視も天下を取れるとなったら孝明天皇を無視し始めた。どうせ天皇は、民衆からすれぱ、声さえ聞いたこともない八重雲の彼方に隠れたお人。 明治天皇 = 大室 寅之祐だとする証言は、外祖父の中山 忠能の「奇兵隊の天皇が就く」発言、宮内相として明治天皇に仕えた伯爵の田中 光顕の晩年の証言、明治天皇の御孫という中丸 薫さんの話など、昔から天皇の近親者のものが幾つもある。 それから、大室 寅之祐の弟の庄吉の子供のヨネは元首相の橋本 龍太郎の祖母である、という人間関係があるが、ここの関係一つ見ても、それ以降の皇子の出自がまた怪しそう。つまり、明治以降になると皇室には殊更 男の嫡子の誕生が求められるが、そう上手くはゆかないし、事実、戦後はどちらの宮家でも女子ばかりがお産まれになっている。国の重鎮らとしたらどうしたいだろう…。 以上のような事実があるとすれば、我々は何所の馬の骨か分からない者を崇め奉っていることになる。北朝も南朝も明治維新と共に途絶えていることになる。維新[一新]とは言いも言ったり。 当たり前の認識と全く異なる情報を示された時に、「突飛だ」と否定していれば安心安全だが、我々は何事につけ固定観念や共同幻想にドップリと漬かっていることも自覚しないといけない。地球は丸かった。 以上は、推論・検証などの是非はともかく、「幕末 維新の暗号」(加治 将一 著/祥伝社 発行)、「裏切られた三人の天皇」(鹿島 昇 著/新国民社 発行)などで興味深く読める。
【地水師】初六の辞はまさに王政復古を宣言して親政をスタートする際のことを書いている。それには何よりもまず「律」が必要である、と。 古来 読み方が分かれる「否臧凶」。まず、その前に、「師」は勿論 明治天皇、「律」は号令節制のことで、統治の在り方と採れる、と。そして、公田 連太郎 翁の通り「否ざれば臧きも凶なり」と訓読して、つまり、厳正な王政復古でなければ、徳川幕府のくびきを解いても(「臧」とは戦いに勝つこと)、新しい政権は立ち行かなくなる、と。 宋代の程 頥は「初は師の始なり。故に師を出すの義 及び師を行(ヤ)るの道をいう」と「程氏易伝」に書いている。事を行うには「義」がなければ宜しくない。また、「凶とは民に殃(ワザワイ)し義を害するを謂うなり」と。 この初六は、これを大将として観ると、位は初爻の微賤の者。陽の位に陰爻で居り、正しくない。そして、唯一、上の九二の陽爻の伊藤 博文らと陰陽 相比している繋がりしかない。こんな者を大将に担いだら、おサトがばれて、新体制は崩壊する、というわけ。 錯卦【天火同人】|||||(← 左を上に。以下 同じ)の睦仁親王その人をもって、【地雷復】|の御一新を成し、そうして、初爻に伏する【地澤臨】||の明治の世に臨む、ということになるだろう。 この筮、ちょっと占的を拙った。「明治天皇は」と未だ誰とも着かない人を占的にしたので、この不正の初六は睦仁親王のことを示されたものではなかろうね…と疑念が湧いた。 思ったままを言語化して占題にするといけない。これでもって、俯瞰で示されると、主語が分かり辛い。 この占示の真意を質す。 14【火天大有】|||||三爻 爻辭「公[九三]用って天子[六五]に亨せらる[亨す]。小人は克(アタ)はず」だ。象傳には「〜小人は害ある也」と。 あら、この九三の「公」とは諸侯のことだ。六五の天子とは別の人…。「用って」とは「大有の者を用ふ」の意味。【火天大有】は大いに有(モ)つであり、長いこと待ち過ぎであり。この辞、もし親王が天皇として用いられる、と読んでも、小人は能わず、害あり、としか読めないだろう。あるいは、「享す」と読んで、「公」を伊藤 博文らとして、上に何かを勧め上げる姿に読んだら、それこそ怪しい。 前の占の錯卦【天火同人】はそのまま「同じ人」? |
Copyright (C) 2001-2024 Leibniz Cop. |