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| 以前にも同じようなテーマで書いたと思うけれど、またちょっと違う説明が思い浮かんだので、易学徒の方に資すれば、と。 易学徒は「 “易神さま” 即ち、易を司る神妙な摂理との咸応を(実感できないとしても)信じ切れるようになることが的確な占示を得るための土台」ということに気付かない。だから、「信じ切れるようになるにはどうすれば好いのか」の疑問も湧かない。この辺りから述べてみる。 例えば、目の前のコップを持ち上げようとする。その時「持ち上げられないかも知れない」と疑うことはないだろう。手が動いて掴んで持ち上げるのが当たり前。 それと同じで、こちらは筮時に、頭を占めている問いについて「適切な占示を得ないかも知れない」などと迷うことはない。適切な占示を得るのは当たり前であり、頭からそう思っており、いつからかそのようになった。気まぐれにたまにフと疑りたくなるが、ダメ。マトモな占示を得ない。 それにはどうするか。先ず「問い」の問題。これは中国では「占問」、日本では普通「占題」と言っている。 どういうことを知りたいのかの「どういうこと」は大切なポイントで、易では占事を整理して占的として絞り込むことが大事。ただ、占示はそれからはみ出すこともあり、占的が広いとその部分が示されたり。或いは、問いの前提になる部分が示されることもあり、読みに迷う、読みを外す。 単純に自分の思いを言葉(= 占題)にしてみることが好い。 この純粋性は神社で御祭神の反応を得たいと願う場合も似ている。ただ、経験では、御祭神に対する場合には善悪の善の方向に純粋になることかも知れない。キリスト教の世界でも同じだろう。 イマヌエル=カント[GER]の普遍的価値の真・善・美で言うと、 “易神さま” に対する向き合い方は「真」、神社の御祭神に対しては絶対「善」。
この天に真っ直ぐに「真」であり、且つひたすら人や動物に試合と献身で「善」である心持ちというのは膝を打つ。現に神靈と会話しているし、その状態を信頼しているというか。 で、この「自分を clear にして、本当に常に天と繋がる」この辺りの感覚を身に付けたい、とこちらも切に願いながら、静まり返った神社で御祭神と向き合うことを続けている。 まあ、易もこんなように強く神経を払ってやっているばかりではないけれど、執筮にはかなり脳のエネルギーを使う。起床したばかりでもないと、数回で頭がカッ飛ぶ。 今は筮時の問いの純度(= 占題の文字に落とせるだけ問いを整理)とか頭のコンディションのことなど(= これまでしばしば書いて来た)、色んな夾雑物や障害、易に纏わる疑問を排除して、咸応の純度を上げるための考察をやっている。 こちらはそもそも非常に不器用なタイプで、若い頃はマイナス思考が先に走る重症患者。何事でも「上手くゆかないんじゃないか」「(当たったのは)偶然じゃないか」…そう思うことを嫌っても、頭を走る。勉学でもそのまま暗記すれば好いものを「これやって将来にどう繋がるの?」だから身に付かない。物ごとを素直に受け入れる気質の人というのが宇宙人だった。 靈的に言うならば、これも魔物の障りかも知れない。睡眠不足や頭が飛んだまま執筮すると、決まって良からぬ存在が干渉することは度々 書いた。 似たような問題で、初学者だと、上に買いた “集中” から先のメンタルが解らないという反応があったりする。そういう自分を客体視する目線が混じったりするのかも知れない。併し、切なる問いがあって易に拠るのではないのか。あとは、自分に意識を向けないように。 “易神さま” の方を向く。 もう20年以上前、どこかの易の先生に師事していた俳優の燗 政宏さんがテレビ朝日「徹子の部屋」のゲストとしてだったと思うが、黒柳 徹子さんに「易占って当たるんですよ」と熱っぽく力説しているのを観て、「やっぱり易占って当たるのだと」と思ったのがこちらが易に本腰を入れるようになったきっかけ。それまでは一般書店が取り扱う本を読むばかりで、隔靴掻痒。 神田神保町の原書房に通っては専門書を購入。加藤 大岳 先生、呑象[高島 嘉右衛門]翁の文献は特に恥肉になった。 それで、性格は粘り強いので、やっていれば何かどうにかなるかもで、思い付いた確認実験も含めて易の探求をやって来た。理路整然とした頭だったらこうはならない。お金も時間も大きく使うし、バカバカしくなる。 子供の頃から普遍の真理とか神靈の世界に近づ期待気持ちで本類は総ナメのようにしたけれど、実際のところ、田舎に引っ込むと、独学しかなかった。 話を戻して。こちらは、たまに明確な的占を得ると、あちらとの咸応酬酢を信じられるようになり、それでもまた読めない占示を得ては半信半疑に戻り、半年ほどスランプにもなったり。皆、通る道。 併し、試行錯誤しながら、膨大な数の筮を執っていれば真っ当に卦読みしてキレイに当たることもある。すると、“易神さま” との咸応酬酢を信じる気持ちが起こるだろう。すると、不思議にシンクロの精度が上がる。この繰り返しの経験が何よりも大事。【風山漸】のガクンガクンと段階を経るように問いに対する占示が適切になってゆく。気が付くとあの重度のマイナス思考は消えていた。 易に限らず、見えないものとのことは素直に信じ切っていることで上手くゆく。そこに疑いがない。これは、易と同じく、次元を跨ぐ摂理。
もう願望が叶ったものとして波動を放つと、あとからその振動に合わせて現実が形成されてゆく。その振動次第であらゆる可能性として漂っている未来のどこに進むかが決まる。すると、こちらが進む道を選び撮っているのではないのかも知れない。より良き未来を自分の中で明確に描くことが人生を送る上で如何に大事か。ワクワク感と。 だから、易の占示も、それが顧客なり本人に伝えている場合には現状からの流れを示しているわけで、本人の現実の選択だけでなく本人の波動次第でも成り行きは変わる。 大体は卦読みの通りになるけれど、ならない場合には問筮者の前向きの意思や怠惰などが入り込む。 また、3.11の頃はまだ迷いの域。易以外では、津波の時のあとの驚きの奇跡とか、亡くなった愛猫の靈聴を経験したのが「見えないものを信じる」上で確実に後押になった。熱心に追求していれば、たまにはそんなことも付いて来る。 それと、何事でも分からない部分・疑問があるから不安になる。そこを塗り潰すこと。 そうして、今では「卦を得ていない」「ブレている」と思うことはあっても、あちらとの咸応酬酢の否定になることはない。原因が想像つく。 “易神さま” と咸応酬酢を半信半疑に終わるか、この域に来るか、は適切な占示を得る点でまるで異なる。その上でマトモに占考に入れる。 以上、半信半疑にある時期にこのような話を呑象 翁にでも聞かされていたとしたら、自分は迷いなく無駄なく前進できた、と思うので気付いたことを書いてみた。 國易の伝統を絶やすべからず。後世の方には更なる発見と熟成を期待。
因みに、第三の眼(= 第6チャクラ)が開いている人から言わせると、こちらは開いているらしい。 “易神さま” とのシンクロをやっているからかな。 よく言われる額の中央がムズムズするというよりも、こちらはそこを意識するとビンビン疼いて、指で触れて離すと、疼きが強くなる。やろうと思えば、ここに気を溜めて10 cm ぐらいは前に伸ばすことも出来る。この気のボールはもっと大きく育てられると思うが、疲れるし、集中が切れると圧がなくなって雲散霧消する。たまに自然に非常に疼くことあり。物理的には、立てた消しゴムなどをそれで倒すようなことは出来ず、素通し。 また、こちらは、額の中央は骨がほんの僅か出張っている。皆そうなのやら。 ただ、第三の眼が開いたらしいと言って、靈視や亡くなった人と会話ができるわけではないし、アルベルト=アインシュタイン[GER]が提唱した時空理論で現在と同時に存在することになっている過去・未来を視ることもできない(= 易のみ繋がる)。第三の眼の体感を更にどうすればどうなるのやら…課題。 | |||||||||||||
| #易占 #易占い #占い #信じ切れる #咸応 #酬酢 #第三の眼 |
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| 33【天山遯】九四の「好遯」。何故これは「好めども遯る」「好(ヨ)みすれども遯(ノガ)る」と逆接に読む人ばかりなのだろう、と以前から。陰陽 相応ずる相愛の初六へ遯するではなくて、初六から遯とする根拠は?と。 原文は爻辞「好遯。君子吉。小人否」。象傳「小人否。君子好遯。小人否也」。
そして、九五「嘉(ヨ)く遯る」は宴席の嘉き肉となる豚、上九「肥(ユタ)かに遯る」は食用の肥えた豚のことで、「好遯」もどれも祭儀に供せられる豚を描いていることはその通りだろう。 豚 + 辶 = 遯。最古の部首別漢字字典「説文解字」(許 愼 編、B.C.121)には「辶」が見当たらないが、道を行くと言った意味らしい。 因みに、「漢字の成り立ち」(落合 淳思 著)は面白い。『説文解字』から白川 静・藤堂 明保まで、字源研究を批判的に継承した上で到達した最先端の成果を平易に紹介する、新世代の入門書。易辞を重ねてみたい。白川 静の本は20冊ぐらい持っているが、「ホントかなぁ」。 茨城大学 教育学部 国文科の前川 捷三 先生の論文「周易考察-3-」を拝見して考えてみると、九四については、神に供するのに不吉な豚や食するのに好ましくない豚もある。 それならば、以上を踏まえて、確信とまでは言わないけれども、「好遯」とはそういう宜しくない豚を避ける・退ける、好き豚を(選んで)供すると理解するのが適切ではないのか、と。君子はそのようにするので、吉。小人はどんな豚でも使ってしまうので、否。九五・上九の書き下しに倣えば、「好(ヨ)きに遯る」。 例えは、伊藤 東涯 翁「周易経翼通解」には九四に「好みて遯るるなり〜初六と応ず。此れ其の愛好する所の者なり」とある。濱 久雄 先生はこれを訳して「好みて遯るとは、親しんでその方に逃れてゆくことである」と。だから、読み下しもそのようにする必要がある。 併し、東涯 翁は九四は陽爻陰位の不正で道に反する、だから、惹かれていてもその豚を避けるのだ、と変な理屈と述べる。何故 好いているのに踵を返して避けるとしたがるのか? 旧説に逆接説が先にあって、その理屈を探しているだろう。避けるのは好くない豚だろう。また、正応の関係にあるのに不正だとそういう解釈にするのならば、他もそのように解釈するのか、と。 前川 先生はこの論文の最後にこう書かれている「『周易』の作者(もしくは編者)は、封名・封文辞に迷彩を施しているかにも思われる。封文辞解釈を模索しつつ、その迷彩の奥に韜晦する作者(もしくは編者)の姿を探りたい、と考える」。 前川 先生のこの論文(1〜4)を玩味させて頂いて、易辞全般の見直しを進めよう。本を出そう。 |
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| 古来、解釈が真逆に分かれる卦・爻。さすがに3千年余の歴史があれば思想・流儀・発想と色々と出て来る。 易学徒の皆さんのご意見は如何でしょうか。
【風天小畜】は六四の一陰が五陽を制止する(危うさ)、のようによく訳註書などに書かれているが、陽爻が大、陰爻が小で、一陰の方が五陽に制止されており「小畜」と名付けた、と江戸中期の伊藤 東涯 翁は義理易の「周易経翼通解」に書いている。 上の枠内の解釈は、義理易の三大学者の魏の王 弼、北宋の程 頥[程 伊川・程 子]、南宋の朱 熹[朱 子]による “旧説” 。東涯 翁もこれに従う。 < 初 九 > 旧説によると、この初九は陽剛の一部で上進する意志あり、上位に復帰しようとすることが「復る」であり、相応ずる位地の六四とは陽と陰とで正応だからこれに上進を妨げられず、次第に剛陽の道を伸ばすことが出来る、正しい道に沿って復る(それは陽で陰を変えることだ)、のように解釈する(学者によって差異あり)。どうして単に災いがないだけであろうか、却って吉を得る、と。 正応に復るは解るが、進んで上位に復るの考え方にはこちらは違和感がある。例えば、24【地雷復】|六四の「獨り復る」は、復るべき正応の初九に復るが、下位に復る。 他方、多くの先哲は、初九は六四に上進を妨げられて、元の下位の位地に復る、とするのであり、引き返すことを「復る」としている。旧説とは意味が真逆。明治期の敬愛する呑象[高島 嘉右衛門]翁も、多説をよく比較検討された公田 連太郎 先生も、この制止される説を採っている。 但し、呑象 翁は「此の爻を得る時は、久しく通ぜざるもの、漸く通ずるの時とす」と占(= 占断)を残しており、進むところを制止されて本来の初九に引き返し、漸く通泰する、とは何ぞや。で、占例では占題の主が残念ながら制止されると判じていて、事実その通りになった、と。チグハグ。 < 九 二 > 旧説は、九二についても同じで、九二は九五とは不応で引き合わないが、初九を引き連れて上進し、六四に対して互いに救い合うと共に、九二は中庸の徳があるので六四には制止されず、上位の本来の場所に復る、のように解釈する。 これは、初九と引き返すのでは初九の解釈と合わないので、初九のそれと無理に揃えた印象が拭えない。 他方、多数派による静止される説は、上進したが、初九を引き連れて本来の位地に引き返す、と。初九の解釈とほぼ同じ。
43【澤天夬】は陰陽消長卦で、陽が伸び進む卦。 九二は且つ陽爻だが、陰位で且つ中(チュウ)でバランスが取れており、変事に備える。 “制止される” も “復る” も要素が拾えない。 本当かな。 |
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爻辭に出て来る期間の数字は「これから」ではなく「これまで」のことではないか…この7月「易占機考」を再開するまでの1年の間に疑問に思ったこと。
つまり、九四を今当として、3爻 上がった上九の時に物ごとが叶う。九四を含めないなら 63【水火旣濟】に移る。 明治期の呑象・高島 嘉右衛門 翁はここをこれまでの3年と解釈しており、こう判断を書き残している「●三年 勉強して、今日 其の賞を受くるの象とす」。これまで三年 努めて今日に至り、その実を結ぶ、と読むべきではないのか。程 頤・朱 熹の易辞解釈を踏まえた定評のある伊藤 東涯「周易経翼通解」でもそうだ。 そして、呑象 翁は2爻下の九二の判断にはこう書いている「●三年の後(ノチ)貴人の引き立てを得るの象あり。●進みて事を為すは、尚 早し。三ヶ月 待つに宜し」。九二の爻辭には「三年」等の文言はない。 数え方のことでは、ここでは九二から九四への間を「三」としている。呑象 翁は数え年と同様、得爻自体を1日・1月・1年とカウントするので、九四が3日後・3ヵ月後・3年後になる。 或いは、「増補 高島易断」の初六の占例に九四をその成就の時としている場合がある。これを採るならば、満の数え方になる。一貫性を欠く。 考え方としては、内卦は【未濟】の内の【未濟】であり、物ごとが成し遂げられない時。外卦の【旣濟】に入って成し遂げ得る。スタートは【未濟】、ゴールは【旣濟】であること。 さて、爻辭のこの部分を判断に使った場合、どちらが現実に付合していたかだが、3年とは長い期間のことを云っているので、過去占を見返してもどちらも当て嵌まりそうな占例が多い。 ただ、ある人との出会いから3年ほど経つことあり、この間 進展らしい進展もなかったが、最近 今後の展開について一筮して【火水未濟】九四を得たので、楽しみにしている。
その爻辭「高宗(= 殷の武丁)鬼方(= 北方の夷狄、殷で鬼方、周で玁狁、漢で匈奴)を伐(ウ)たば、三年にして之に克(カ)つ。小人は用ふる勿れ」で、3年 経って今 漸くにして物ごとが成し遂げられた、と。 九三は【旣濟】の内の【旣濟】の上の爻であり、次の六四は【未濟】に入るので、これから3年というのはおかしい。 |
| #易占 #易占い #占い #3年 #火水未濟 #水火旣濟 |
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これらの卦・爻を得て、爻辭を採ろうとした時、神様を祭[祀]れば好いの? とか、神社なんかにお祈りに行けば好いの? と初学者は思う。 それはどういう問いの占ですか、ということで、もし異性と交際していて結婚できるのかを質したのならば、これらの語は = 結婚のことで、結婚できますよ、と(問筮者の本人が止めにしなければ)。或いは、結婚するべきかを質したのならば、結婚するに良い(相手)ですよ、と。 例えば、自分の結婚への成り行きを質して、【澤水困】の九四を得たならば、爻辭「(九四は陰陽 相応ずる初六へ)來たること徐徐(= ノロノロ)。(初六に行こうとして)金車[九二]に困(クル)しむ。吝なれども終わり有り」で、お相手に対する必要なアクション(= 遠距離で相手の元へ行くとか、プロポーズとか)がトロいのだ。それでも「終わり有り」で、やっと行動に移す。 九四を陰変すると 29【坎爲水】||になり、想い想われの関係ではないかな。 それで、次は九五で、翌月になるか翌年になるか爻辭「〜乃ち徐(オモムロ = 徐々)に(九二を得る)説(ヨロコ)び有り。祭祀を用ふるに利し」で、そういう段階に来たのだから、結婚したら宜しいでしょう、と。 結婚の可否を質して得たのなら、出来るでしょう、と。 物ごとのの推移を質したのなら、初六〜 九四の成就する時。 また、この九二を得たなら、爻辭「〜朱紱[九五](シュフツ = 天子の礼服)方(マサ)に來たらんとす。亨祀に用ふるに利し」で、なかなか本来のお相手に恵まれなかった人が、終にゴールの人が現れた!という状況で示される場面に出くわす。努めて、結婚するが宜しい、と。 九二を陰変すると 45【澤地萃】||になり、これが8【水地比】|なら比(シタ)しむ程度の関係だが、【澤地萃】は結婚という互いの未来も親戚などの人間関係もお金も家財道具も萃(アツ)まる背景を示している。 この「祭」や「祀」は占の冠婚葬祭等に応じて活断すれば好いのです。 |
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| ドナルド=トランプ前大統領についての2つの誤占の原因を考え中。感情移入、しかも、強過ぎたためだろう以外に結論なし。USAがディープ ステートのグローバル勢力と中国共産党の合作に乗っ取られてしまう、と。 逆に、眠気が過ぎて頭がダメになると、順風な成り行きを得る筈が、必ず好からぬ占が示される、夜中に限らず。また、その通りになりがち。逆に、この状態で、占示が好過ぎる場合には現実と付合しない。 この頭の問題をあらためて考察中。 この間、話が込み入っていて判断保留の例などはあるが、白・黒判断では外していない。公務の件があって、一人々々「この人には了解を得るか」と質してみて、読みに間違いは一件もなし。
願望は明(智)を夷る。 【地火明夷】の符号は、【水火旣濟】|||(← 左を上にして見る)を基準卦とすると、謂わば易占を司る “易神さま” の五爻だけが陽位に陰爻の不正であり、無力になっていて、陰なる者に乗っ取られている形。 基本的にはあちらとの酬酢とは伏卦【地天泰】|||であるものを。 |
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| 卦読みでは何よりも、こう読むのだという読み筋が肝心。 迷いなく筮を執って卦・爻を得ても、それと明確にしてある筈の占的そして占事との重ねた方が肝心で、ここが独り合点だと話にならない。こちらが拘ってやっている白か黒かの問いだと曖昧は許されないので、こうだという太い線を引けないといけない 占考ではまず、卦や爻の象を捉える。爻は上位・下位を観る。それを占的・占事に対して素直に重ねる。要は確かなセンスで、対人関係の占など、好い占例をたくさん学ぶことに尽きる。 こちらの言う三 “遍” 筮法では、所謂 伏卦は読み筋を立てるのに非常に重要(筮儀としても三変ではなく、三遍筮法としている)。伏卦を見ればピンと来ることが多いもので、占例もよくその辺りから書いている。 「伏卦は得爻の意の裏であり、相応する爻も含めて、それは事態の裏の面・背景である」そう明確に説いて、使いこなす人がいない。 易友の会を構えているような先生が「得卦(得爻)と伏卦の意味を合わせて考えて」などと言われることがあるが、これは白とその裏の黒を混ぜ合わせて判断するようなもので、まさにグレー判断。 この伏卦とその爻の意味するところは時間・順序のことで言うと、三遍筮法では得卦・得爻のそれよりも前になるとは限らない。本筮法等の一爻変による之卦のように、そちらが問いの最終的な答えになることも多々ある。このことでは加藤 大岳 先生と同じく何年も患ったが、同じ卦・爻であっても機械的にはゆかない。 だから、三変筮法でも必ず変を取る白蛾流が間違いであることは言うまでもない。本筮法を簡略化し過ぎて変の機能を失っているというべき。
時間的推移を下位の爻に求めるなどはその最たるものだが、御神明はそんな判り難い読み方を求めるのだろうか。簡略化した三変筮法であっても、それほど卦・爻など易の道具立ては洗練されない不自由なものだろうか。 易は占筮の必要から始まっており、要は当てることが目的。 1700 年代に生きた新井 白蛾 翁は華々しく象数世界の可能性を追求したが、例えば、大卦(= 大成卦の符号が小成卦の形を成す8つの卦)にはどういう性格の占で食い付くべきなのか、その際 爻辭の扱いは、といったことには関心が薄かったか、商売のためにそれらは口伝にしたか。 実占から遊離した観象法や占法はそれはそうと書き残しておいて欲しかった。 自分の過去占を読み返してみると、その時に頭にあった筈の問いに対して、読み筋がちょっと違うなと思うものが目に付く。この占示は、もっと退いて観た全体風景のことだろうとか、先の具体的な展開を示すことで問いの前提を否定しているようだとか。心掛けてはいても、どうしてもその時の直接の状況とか思い込みに引っ張られる。 こりゃ間違えたわと、結果が出ていない占については書き直そう。記事は自分のために書いている。 |
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| 【地雷復】は判断が難しい。真逆に判断しがちなので始末が悪い。 いつもの恋愛占で、例えば、互いに結婚していて不倫というカップルにこの卦を得た場合、その片方はどこまで復るのかの問題 … つまり、不倫は解消となって、相手は連れ合いのところに復るのか、或いは、それも破綻して不倫相手との再婚などのために結婚以前の状況に復るのか。 「何もなかった当初の状態に復る」とよく書いたが、それも占的や占事とか状況次第でどちらもなり得るし、更にもっと複雑なケースでは現実の材料が多いだけ現実判断になるかも知れない。 進むか・復るかを問いたいような場合には【地雷復】を得がちなので、ややこしい状況では占的をよく考えるべきだろう。占的を変えて別に筮を執っても好い。
元に復ることは復る。 六四の裏に【震爲雷】||(← 左を上に。以下 同じ)あり、その九四は内卦【震】に続く外卦【震】の主爻であり、再び気持ちが揺れ動いた = 既婚者の恋、不倫の様。それが状況の背景がある、と。 他方、得卦【地雷復】ではその【震】が【坤】に変わるのだから、気持ちが消えている…。 爻辭からもそこいらは読み取れる。 すると、この女性が復るのは不倫以前の状況までだろうと判断がつく。 ふにゃふにゃの輩の態度なり身の振り方はというと、綜卦を観れば【山地剥】|で、得卦の六四に当たるその六三はそれを裏返した 52【艮爲山】||の二つの “家” の内卦【艮】の主爻なのだから、色々 想像がつく。 このように、陰陽が一爻だけ異なる卦同士の関係は曰く言い難い神妙なものがある。 |
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| 易辭の解釈に対する根本的な疑い。 まず、1973 年 湖南省長沙市の馬王堆漢墓から出土した紀元前 168 年の前漢の埋葬の副葬品「帛書周易」は、卦は64あるものの、全体が上・下篇に分かれておらず、卦序(= 卦の配列)が今 通行本に見るものとはまるで異なり、【鍵】で始まって最後は【Y】で終わる。加えて、卦名自体が現行とかなり異なっていて、それが35/64もある。この卦名はこの作者の試みなのか。爻辭も異なるという。
というのは、1993 年 湖北省荊門市の郭店楚墓から出土した周末期の戦国時代の竹簡とその翌年 香港の古物市場に出回った竹簡を合わせた「楚竹書周易」は、更に古い秦の前の戦国時代の紀元前 300 年頃のものと言い(焚書坑儒の前)、それには【乾】・【坤】がなく、1【蒙】、2【需】、3【訟】、4【比】、5【師】〜33【旣濟】、34【未濟】で終わっており、【師】と【比】が現行の逆などとなっているが、卦名は今と同じ。 同じく出土した他の儒・道の経典でも、伝来の内容と異なる部分がある。 それらよりも更に古い時代の「春秋左氏傳」に載っている占例の卦名は現行と異なるものはないと記憶している。 また、1977 年 安徽省阜陽県の双古堆の西漢汝陰候墓から出土した前漢初期の「阜陽漢簡周易」は、卦名・卦序については承知していないが、卦辞爻辞に対して卜辞が付けられており、詳細な占筮の書として使用されていたことが判る。 卦序と言うか、64の卦同士は本来これとこれがこういう関係なのだろうとする試みについては、その後の象数の傾向の強まりと共に、前漢の京房の「八宮世応図」で精密さを極めた。 そこで、他方、占断に使う爻辭。今ある易辭の文言は戦国期〜前漢の時代に誰かによって定められたが、すると、上の変遷と共に爻辭の整合性(つまり、一爻変によってできる互いの卦の爻辭の意味関係)を詰める作業はなかったのか…。その辺りの分析を寡聞にして知らない。 易聖と謳われた呑象[高島 嘉右衛門]翁であっても、こうした問題についてはご存じではなかった筈だし、その時代の漢字の意味を踏まえてもいない。 こうなると春秋時代から現行への卦名の変化や、易辭の意味を納得ゆくまで確認したくなる。白川 静 先生の字書などとじっくり突き合わせの作業をやらなくてはない。 |
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| 筮竹やサイコロを握らなくても成り行きの良いか悪いかぐらいはしばしば感じられることで、特に深刻な場合には筮するに関わらず「頭の中に暗雲が立ち籠めて払おうにも払えない」。そういう感覚については折に触れて書いて来た。 こうした予兆はおそらく誰にでもある筈で、自覚できていないだけではないか。昔の日本人は自分の中の微細な感覚にもっと向き合っていたと思う。 同様に、(筮前に)卦を得ないだろう、(筮後に)卦を得なかったな、という “違和感” もまたあり、確かに現実にそうなると確信できるようになって来た。これはまた別の “違和感” 。 こうなるのは、気が乗ってもいないのに手持ち無沙汰で一筮やった場合とか、この “違和感” がモヤッと先に立っていながら執筮する場合など。筮後も纏わり付く。卦読みしていても決まって腑に落ちないし、そのまま断じればまるで誤判。 だから、先ず、問筮にはフラットな気分の確保が要る。筮に対して倦んだ感覚を引き摺らないことで、それには時間を空ければ好い。宜しき占示を得たいと思うなら、睡魔は厳禁。「宜しき占示を得たいと思うなら」の理屈はここを読んで下さっている方にはお分かりだろう。 こうしたテーマで語り合えるベテランの易友がいないのが残念。 易は故・仁田 丸久 氏の言われるように靈學の入り口。執筮で求象の念を奮い起こすことでやって来る上のような感覚を一つ一つものにすることが異界への扉を開く。 同時に、何か具体的なことなのか真理なのか求める中で、小なり大なり “悟り” を得ることがないなら、得ようとしないなら、人間に生まれた意味がない。 この過程に気付くまで20年余。 |
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易占の愛好家の方、嫁いだ娘さんが夫の浮気やらDVやらで自宅のマンションを出ている様子。それで、今後どうなるものかと、彼が三変筮法(変は観ない)で一筮した。
これは読み間違いかも知れない。【地雷復】の判断は難しくてどこへ復るかでフラフラしがち。だが、戻るべき場所なり位置なりを占事の前提としてないのならば、何もなかった当初の状態へ復る動きを察する。 六三の伏卦【地火明夷】||(← 左を上にして見る)の陽が落ちた、陽が傷ついた状況があり、そこからの脱出。 つまり、「頻復」、頻繁にマンションを出入りしていることが事実ならば、その娘さんは離婚しようと弁護士のところに行ったり必要な手続きを進めたりとあれこれ行動しているだろう。 今後どうなるかを質して「頻復」を得てこれが現状なのだから、次の六四は「獨り復る」なので、来年には離婚手続を終えて家に戻って来ることになると思いますよ、とアドバイスを差し上げた。 |
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引退宣言をした浅田 真央ちゃんについて、女子レスリングの吉田 沙保里さんが「国民栄誉賞を」と訴えた。真央ちゃんはスポーツ選手の域を超えて「国民的」は文句ないだろうし、これの受賞者が要望しているのだし、自民党にとって総選挙は遠からずだ。よく分からない長嶋 茂雄と松井 秀喜のダブル受賞もある。ただ、タイミングは悪いと思った。
さて、本題。この初六の裏に5【水天需】||||(← 左を上に。以下 同じ)がある。需(マ)つが背景にある。大勢の要望もある。しかし、初爻なんだということ。事が成り難い背景がある。 また、裏が【水天需】になる卦を見ると、危位の九三の裏は 60【水澤節】|||で、【水澤節】の六三を得て、裏に【水天需】の状況があっても、爻辭「節若せざれば、則ち嗟若(サジャク)。咎 无し」、節しないと嘆くようになるよ、の通りで、判断とすれば面白くない結果になりがち。表の【水風井】では、応じる位地の上爻と陰陽の関係で引き上げが期待されるが。 それではと、【水天需】の定卦主の九五の裏を見ると 11【地天泰】|||で、爻辭「帝乙[六五](= 殷の紂王の父)妹[六四]を歸(トツ)がしむ。以て祉(サイワイ)ありて元吉」と、遂に嫁ぐのだ。 つまり、裏に【水天需】があっても物ごとの成否や判断の吉凶は別だし、【水天需】は需つことや期待があるだけ。 伏卦のことに無頓着で「得卦と伏卦を合わせて考えて判断すると」とチャンポンのように言われる先生がいらっしゃるが、何のことだか分からない。 |
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| 占的の転位とは、例えば恋愛占で、お相手との成り行きを質した時に、その問筮者が吉とか凶とかどうとか示されるのではなくて、占の的がそのお相手の方に向きを変えて、お相手がどうとか相手方から見た内容をもって示されること。だから卦読みを大きく間違いがち。 「占的の転位なんてものはない」という先生もいて、安易にそうやるなとの戒めは分かるが、爻辭の解釈からすればやはり占的の転位は否定できない。
変革・革命等を意味する 49【澤火革】||||(← 左を上に。以下 同じ)の序卦で、鼎(カナエ)は今で言えば料理を煮るのに使う大きな鍋。外卦【離】の “火” の下から内卦【巽】の “風” が吹き上げている。革命 成って円卓を囲んで同士と料理を食べながら今後の政策を練っているとか、鼎の中で生のもの(主義主張)をじっくり煮込んでいるとか、鼎は三本足なので1本が折れて3人の内の1人が欠けがちとか、そんなメタファーがある。 九二の爻辭は、九二の我に初六の仇とか疾が付着しない、とある。即ち、自分が宜しくない人に好かれるとか、ストーカーされるような画を浮かべがち。 ところが、こういう占事・占的だと「鼎に實 有り」がポイントで、問筮者が男性の場合、想いを寄せるお相手が妊娠していて、既に人のものになっていることがままある。即ち、九二は問筮者のことを云ったのではなくて、お相手の状況。初六が困った存在の問筮者。要するに、この事実をもって問筮者の機運が示されていることになる。 卦からして、あちらにまず結婚という変革があり、次に、子供が出来た、と。 すると、問筮者の状況は綜卦【澤火革】となり、状況からすれば失恋ということになる。
この卦はモヤモヤとして見通しの立たない状態を意味する。 この六三の爻辭は、27【山雷頥】初九、61【風澤中孚】九二と同様、得爻の陰陽 相応ずる外卦の爻が内卦の得爻を戒めて語るとして読む数少ない例。上九は六三の女を娶るな、身持ちが悪いから、と云う。すると、この爻辭の思い違いによる失敗の意味合いからして、問筮者が男性なら、どうも六三は自分のことではなさそう(必ずしも実際の性別で当てはめる必要はないが)。これは占的の転位で、上九が問筮者であり、彼への警句と理解される。相手の女性の状況を何か勘違いしているぞ、と。 また、六三が相手の女性なら、その隣には九二の男が居そうだし、その裏には初六の別の女性が居そうで、三角関係が臭う。47【澤水困】|||も同様。 それと、そもそも、「お相手は」ではなく、「問筮者は」の問い方にしないと卦読みがワケが分からなくなる。 占事においてポイントになる爻辭(・象傳)の文言の意味合いが占的に合っていないようなら、爻辭自体の意味、爻の前後や卦の流れなどから、占的の向きを再考してみる。 このように読めるかは易者次第で、経験値が全て。 |
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