トホカミヱミタメ

紫龍仙道人との邂逅
2009/ 1/ 4-1/ 5(改 6/27、7/ 5)、1/19、1/23
 “仙人”というと中国の伝説上のキャラクターを想像する人が殆どだろう。現代では何事も巨大メディアが取り扱わないと人々の共通認識の上では存在しないことになって仕舞う。連日イスラエル政府がガザ地区に壮絶な空爆をやっても、不都合なUSAメディアが伝えないと無いも同じだ。日本政府が再び債務不履行に向かう韓国に外貨を融通してやっても、あちらでは“自尊心”とやらで「韓日の間で外貨交換枠の拡大について合意した」とまるで対等関係のような報道ぶりだから、かの国の民は日本から恩恵を得ているなんて意識はない。バカらしい。

 
 
朱鳥社

 さて、有名どころでは、修験道の道を開いた役 小角や陰陽道の安倍 晴明など、神法道術の内容などから仙人とされる者は昔から日本にも存在する(神仙界で仙籍にあるかはまた別)。
 江戸末期に生まれ、政府の皇典講究所(= 皇典研究や神職養成の最高機関)の委員も務めた土佐の神官の宮地 水位 翁は、幼少より神仙界ほかの異界とを肉体のまま、あるいは、脱魂して行き来して、神集岳神界・万霊神岳神界などの幽冥界の構造やあちらの有り様を「異境備忘録」ほかにつぶさに著して、神仙道[宮地神仙道]の道を開いた。元は神集岳神界の仙官だったということになっている。
 右の「本朝神仙記傳」はその霊統を託され、宮内省の掌典(= 宮中祭祀を担当)も務めた知人で神官の宮地 嚴夫 翁が我が国の歴史上の仙人らについて神仙道の玄秘にも触れながら綴った書で、明治天皇の親任が厚かったこの斯界の重鎮も多年 異界に遊んだ様子を「玉之屋日記」に書き残している。明治の六仙真の一人とか。
 尚、「本朝神仙記傳」は以前 八幡書店から出版される際、この稿の主の紫龍仙道人が師仙の龍玉天玄真君に出版の是非についてお窺いを立てると、「仙」でない者が多数 含まれているとお答えがあった由。下の「神仙の秘區(- カクレクニ)」の二つの巻はその選集の現代語訳。
 そして、瞑想・気功を能くして道教由来の仙道を極めた高藤 聡一郎 氏のように、仙人は今の世にもいる。不老不死の状態を得ると共に異界とを自由に行き来することを目的として、体外に霊胎[玄胎・仙胎]という別の住処を時間を掛けて練り上げて、肉体の死と共にそこへ移動する霊胎凝結という極め付けの行法がヨガ・仙道などにあるが、その非常に興味深い修行の詳細を何冊も本に書き綴っていた同氏は遂にこれを完成されたか、すでに行方知れずに。
 この高藤 氏の外功[気功]の周天や内丹は山々を跳び回りながら昇天したとか伝えられる明治時代の神仙の山形 嶟(- タカシ)翁の「霊胎凝結秘法」そのものだ。また、高藤 氏の内功[瞑想]の内的発達の過程は禊を復興した川面 凡児 翁の鎮魂法「鎮魂鳥居の伝」のそれとよく重なる。宮地 水位 翁しかりで、日本の先達らは、神仙界などから啓導を受ける例を除いて、道教の古典「抱朴子」・「周易参同契」・「真誥」などを独力で自家薬籠中のものとしている。思えば、天津菅曾・天津金木も易占の日本版だろうし、川面 翁のような霊眼の主が易占を日本由来と主張するのは頷けない。
 隠仙・・・この修道の性格もあって、世に隠れた仙人は数知れず。ところが、宮地 水位 翁に続くようなこの道のビッグ ネームがこちらの田舎におわしたとは、実は最近まで知らなかった。


 紫龍仙道人(本名:渡辺 寿真 氏/1910−1977)。戦前には「實川 泰仙」のペンネームで知られた。宮地 水位 翁の場合と同じく、生身の肉体のまま神仙界ほかの異界とを行き来して、際高い位の神さまからあちらに秘蔵してある真伝の「太古神法」を直々に授かったとかいう希有の人、ぐらいのことは読み知っていた。

 
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 紫龍仙は福島県の太平洋に面した四倉町(現いわき市 四倉)に修験者の子として生を受けた。1年前に亡くなったこちらの祖母より1歳早いのか。一介の労務者として世を送り、晩年の遺影は田舎のじっちゃまといった感じで、この土地のご年配 独特の土臭い面差しがある。
 ご自身の話によれば、6歳の頃、産土神である近所の諏訪神社の境内で夕方 一人で遊んでいて、そこに現れた童子と共に白髪長髯の老翁に小脇に抱えられて天空にある神界の大宮殿に連れて行かれた(仙人や霊媒などは神々の宮座(高天原 ⊃ 神集岳神界・万霊神岳神界など)は日本列島の上空にあると疑いもなくおっしゃっている。「天・地」とは抽象概念ではない、と)。そして、産土大神にも拝謁。以来、いわき市の奥にある霊場の赤井嶽[真言宗]で仏仙とも見られる戸澤火龍道人という謎の人物に付いて密教修験の行を積む。そして、神仙界への出入りの代償として20歳ぐらいから徐々に聴力を奪われ(右の「神仙道の本」では、他人の法力によるためとなっているが、間違い)、28歳ぐらいまで最後の修行だとして中国・インドへ巡遊。その後は四倉に落ち着き、地元の住友セメントに勤めながら、帰幽するまで大山祇神(オオヤマツミノカミ)の代命である龍玉天玄真君(タツタマテンゲンシンクン)の啓導を受け、弥生時代末期に生きた真君が白日昇天したとされる阿蘇山の仙窟や全国の霊場とを往復して修籠すること60数回。霊悟を重ねることで神法道術・秘書・霊符・霊図を現界にもたらすことを得た、ということになっている。
 日露戦争の行方を知らずして帰幽した同じ謫仙の宮地 水位 翁の場合と重なるところが多い。紫龍仙はあちらで「仙」号を受けており、また、宮地 翁とも四度 会う機会があって、「水位」は仙号ではなかったかとおっしゃっていたとのこと。

 何かの使命により、あるいは、あちらでの何かの咎(トガ)を修祓するために現界に人の赤子として送られた神人をそれぞれ使命仙・謫仙(タクセン)などと言うが、ご本人があちらで理解されたものか、紫龍仙の場合はその両方を背負って生まれて来たとされる。使命の方は手付かずになっていたというこの世の万霊供養など。
 第一資料を知らないが、豊臣 秀吉も使命仙ということになっている・・・異教の仏教が朝鮮半島からこの国に入って広く人心を染め上げ、あるいは、最近の研究では対馬の島民を殺戮した二度の元寇は実は高麗の主導だった可能性がかなり高いようだし、その後も、李氏朝鮮による応永の外寇ほかの日本領土への侵攻が止まなかったという時代状況において、日ノ本の神々が朝鮮を穢(ケガ)れと見なし、武仙の秀吉による大鉄槌を加えたというなら、それは神理としては頷ける。戦国乱世を治めて国の頂に立って、秀吉の頭に歴史の報復と大掃除が思い来たことも容易に想像できる。脱線。

 また、神仙道がもたらした「太古神法」とは、伝承ごとに神典形象(ミフミカタドリ)・斎宮神法などとも呼ばれ、神道祭祀の至枢という奥義の位置づけになっており、気魂を込めながら清浄な和紙で折り紙のように様々な神折符を折る行法。第11代 垂仁天皇の皇女で伊勢神宮を創建した倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が大成したとされ、口伝で相伝されて、お役目が皇室の内親王から伊勢神宮の斎王に代わったのかな。それが南北朝の頃に世に漏れて、松浦 彦操 氏ら一部の古神道家たちによっても伝えられた、と。それら民間伝承のものは訛伝も疑われるが、紫龍仙はこの神仙界の龍窟に重秘されている真伝を龍玉天玄真君から直接に授けられたことが特筆される。この行法の中には神道天行居が日本神社に鎮斎した「地下の御霊代」のような深遠な奥義もあるようだが、こちら折符については門外漢。
 もとより近代になって神仙界の存在についてだけは人間界に知らしめる要ありということなのか、「天機 漏らすべからず」ということで幽秘を書き纏めた大部のノート類は後であちらより焼却命令が下ったという。実際には、気が付いたら消えていたとのこと。
 紫龍仙は密教修験の「照眞秘流傳書」として纏めたように様々な神法道術を能くした方で目先の興味を引くが、玄道の実践家は何人いても、こうした突き抜けた人生を送った方はなかなかいない。平田 篤胤 翁の時代に生まれていたら、日本精神史のメイン ストリートの主役になった。
 それなら行ってみよう、と。用もなく旧ご自宅を訪ねようもないので、大晦日の正午、外出の道すがら、先の諏訪神社に立ち寄ってみた。




小雪 舞う四倉諏訪神社(いわき市 四倉)

 
 四倉諏訪神社は海沿いの国道6号線を西側の四倉市街に入り、よく通っている南北の商店街通りの1本 西の通りを行くと、通り沿いに石造りの鳥居が立っている。小高い住宅街の北の外れで、裏はすぐJR常磐線。
 車一台が通れるその鳥居をくぐり、僅かな石段を上ると、丁度お年寄り連れの方が帰って、境内にはこちらだけ。「ここか」と思えば、産土神の従仙が何度も現れたのも頷けないこともないようなひっそりしたたたずまい。
 田舎の神社としては僅かに広い境内に、摂社を含めて、北から、出羽神社・足尾神社・安波大杉神社・金刀比羅神社・諏訪神社・館下稲荷大明神と、大・中・小6棟の社殿が東の太平洋を向いて横一列に並んでいる。合祀になっている社が一つ。石段の正面に建つ一際 大きい甍の写真の諏訪神社は 1,200 年近くの歴史があるとのこと。この左手に御神庫、その奥に石碑が並ぶ。
 子供の頃の紫龍仙が白髪長髯の老翁に何度も天に担がれて上がったのはこの社殿の裏の高台と聞く。そこも辺りも以前は一山 木々が茂っていた様だが、今ではかなり寂しくなっており、一般住宅がせせこましく近接していて、紫龍仙が遊んでいた90年ぐらい前とは随分 趣が違う。この神社も他の場所から移って来たもので、写真の諏訪神社の社殿は昭和33年に改装されている。
 深閑とした境内、神はおわすようだが、お姿は見えず。
 この夜は元朝参りで賑わっただろう。

 修行に入る前から、高位の神さまに選ばれ、神界ほかを巡り、数々の指導を受ける。宮地 水位 翁のように苛烈な代償を受けるのはご勘弁だが、そんな大幸運にありつけないなら、standard に眉間の第三の眼を開くところ辺りからやるしかない。身の穢れを祓い、ひたすら神理を探り、この道への信心あるのみ。肉体が朽ちる前に霊胎凝結を完成して、三島とこの世を自由に往来するようになれますやら。




 
波立海岸の弁天岩(いわき市 久ノ浜)

 
 それから、左の写真はいわき市の久ノ浜の波立海岸の南の端にある名勝の弁天岩。諏訪神社から国道6号線に戻って、北へ数百メートル、トンネルを二つ潜ったところ。
 ここは、紫龍仙のお弟子の勅使河原 大鳳 氏が紫龍仙から窺ったところによると、有数の海神仙界の所在する場所なのだと。この場所に比定してそういう一つの神仙界があるらしく、紫龍仙はここから何度かそちらに出入りを許されたという。ここでも白い霧が立ち現れて被われ、あちらへ移動したものやら。東北最大の海神仙界は宮城と岩手の県境にあるのだと。つまり、そことこことは別の境界なのか?

 前を何百回と通りながら、初めて赤い弁天橋を渡って岩場に行ってみると、海面から10mもそそり立った岩礁の向こう側は海原に向かって小さい祠などが岩壁の所々に安置されていて、なんとも奇異な光景。左の写真の下の方には比較的 新しい七福神の石像も置かれている。子供の頃から見慣れた景色の裏は実はこんなだった。
 この岩場でも赤い小さい鳥居の立つ北側の岩には悪い足場と打ち付ける波とで容易には渡れず、そのうねった波腹の黒々とした深みが何とも不気味だ。確かに、紫龍仙がご存命の頃はここでは自殺が絶えなかった話を聞いた記憶があるが、投身できそうなのはそこぐらい。
 波風に洗われてこの岩礁は年々 小さくなっている。波立海岸も波が国道近くに寄せるほど砂浜がなくなっている。

 また、この弁天橋の正面の国道6号線のトンネルの入り口辺りでは今まで何人 亡くなっているやら。北から来ると、急な左カーブの次にもっと急な右カーブとなったままトンネルに入るから、入り口の壁面に激突したり。普通ではない。
 6号線を挟んだ橋の向かいには波立薬師がある。



 紫龍仙道人の伝記、「修道点滴 ー 隠仙の生涯 紫龍仙真人之記」(朱晃 鳳山[勅使河原 大鳳]著/山雅房 刊)が届いたので、週末 読んだ。

 
山雅房

 これは何というかな・・・何をどう書いて好いか。まあ、得るところが多かった。
 普通人としての素描ごときを書くと、実直、真面目、優しい人柄、働き者。上背 150 cmもないじっちゃま。こちらは 1973 年に浪江町から移動して眼は賑やかないわき市に向いていたが、あの時代、1977 年まで四倉〜平を国鉄常磐線で通勤なさっていたわけだ。四倉のご自宅の自室は神典から奇書珍本、易ほかの運命学書まで本の山だった、と。「アラビアン ナイト」は魔界の消息をよく伝えており、伏せ字がなくていい、とのこと。「古事記」が神界にあるそれと多々 異なるので、註釈書を書きたいと進めておられたが、幽秘に関わるようで適わず。また、カメラがお好きだったようだから、平のカメラの田中にはよく行かれただろう。お酒は基本的に飲まずで、煙草はショート ピースを欠かさなかった、と。肉類はお食べになっていたのやら。結婚はされていたが、子供を持たず、別居を通されていたのは、霊胎凝結のためかも知れない。
 そして、11/14、一昨年 取り壊された平駅(現いわき駅)の駅ビルの東南の角にあった交番の前で突然 倒れ、こちらの祖母らと同じ平の松村総合病院にて帰幽。仙命60回を超える修籠を終えられ、急に呼ばれたような亡くなり方は仙童 寅吉・河野 至道 翁・国安 普明 翁などの場合と重なる。
 神人として印象的だった話は多々。いわき市内で取引銀行の守衛が見覚えのある山人天狗界の天狗だと気が付いて、あちらも気付いたので、捕り物をおやりになったことがあるそうな。戦前、龍玉天玄真君に霊胎のままお伴して観た二つの話は印象深い。ある人が亡くなり、口からキレイなガス状のものが立ち昇って螺旋を描きながら若返って四十歳位の人間の形になると、ヘソから繋がっていた玉の緒が切れた、と。また、在世中、現界に仏仙3人がいたとおっしゃっている。指導仙との繋がりから、あちらで豊臣 秀吉にも会っていて、その人相も語っていたようだ。この稿、ここだけ読んだら頭に聴診器だろうね(笑)。
 肝心の紫龍仙の霊的活動については、修験道系の神法道術を綴った戦前の「照眞秘流傳書」(出版元の人間の無断加筆が多)や「修道乃玄意」・「安鎮神法総説」・「修道士相伝玄法」?などを読まないと掴めない。宮地 水位 翁の「異境備忘録」のようなあちらについての見聞録は残されておらず、書き溜めたノート類は結局 龍玉天玄真君によって知らぬ間に消されたようだ。そんなことで、「修道点滴」が平田 篤胤 筆による仙童 寅吉についての「仙境異聞」や参沢 宗哲 筆による島田 幸安についての「幸安仙界物語」のようなものということになるのか。

 人生には限りあり。平成20年をもって易占研究には一応の区切りをつけて、こちらの修行の準備をしていたらこの出会い。道縁かな。その内、墓前にご挨拶に伺って来よう。



 「幽真界研究 ―『異界備忘録』釈義」(勅使河原 大鳳 著/山雅房 刊)を読み返している。

 
山雅房

 この本は神仙界その他の消息を書き留めた宮地 水位 著「異界備忘録」を講釈したというより、勅使河原 氏の異界論のような中身で、「異界備忘録」と照らし合わせないと何が宮地 翁の見解なのか判らない。それで、幽冥界や神々のことについて付いていけない記述がチラホラだったので、以前は流し読んで終わっていた。それが、上の「修道点滴」で勅使河原 氏が紫龍仙道人のお弟子だったことと、氏の分別具合も分かったので、読み直して見ると、宮地 翁の経験・見解に並べるなどして紫龍仙の何かにがよく出て来るではないの。
 紫龍仙は存命中に霊胎の次の段階になる権胎の凝結を終えていたという。それにより、あちらで位階が宮地 翁と同じ大寿真に上昇。結成途中の状態のものだろう、小学6年生ぐらいの大きさに育った人間そのものの霊胎を勅使河原 氏は見ているようだ。紫龍仙は日本では常に7・8人ぐらいは存命中に霊胎凝結をやり遂げる行の者がいるとしている。
 それと、紫龍仙が現界で仰せ付かった使命は国家鎮護と万霊供養のあたり。その夥しい霊の供養のために霊障で糖尿病になり、それが起因となる心臓疾患で帰幽した、と勅使河原 氏。宮地 翁の場合と違って、尸解仙去であった様子はなく、遺体は荼毘に付されている。

 勅使河原 氏、平田 篤胤 翁ばりに日本・神道・天皇が世界の思想信教の中心のような書き方は、戦前の流行のままではないの。同神異称の見方ではない。70歳を過ぎてからの著であるし、失礼ながら視野狭窄の気を感じないでもない。記紀には「日本は大地に最初に成った国にして世界萬国の根本」などと記され、言霊学の大石凝 真素美 翁の高弟の水谷 清 翁は「古事記大講」で「日本列島は世界5大陸の縮図」と宣揚されたわけだが、鎮魂帰神法を復興した本田 親徳 翁が平田 篤胤 翁の論説を牽強付会だと、現界のことと霊界のことをごっちゃにしていると切り捨てたことが思い出される。
 元々 神仙だったと見なされている平田 翁、宮地 水位 翁や紫龍仙もだが、人の子に生まれる際にはあちらでの長の記憶を失って来るものらしい。帰幽すると思い出すものやら、知らぬ。
 まあ、秀吉や西郷はあれで神仙とな。あちらの善悪とは何よ、と。神理は人の窺い知るところに非ず。

 紫龍仙の「修道乃玄意」を注文。「安鎮神法総説」も読まねばならぬ。



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