易占機考

江戸期随一の易者、眞勢 中州のスゴ腕
2007/10/ 5
 眞勢 中州(マセ チュウスウ 1754-1817)は元禄時代に大阪で活躍した江戸期随一と言われる易の占術師。
 朱子学の“教祖”山崎 闇斎の孫弟子の菅野 兼山に学び、国易中興の祖 新井 白蛾(1715-1792)に従って生卦法や一子相伝の秘伝などを修めると、漢時代の「春秋左氏伝」・「国 語」に見られる占法の研究に励んで易通の妙を自得。後年の思想や流儀の混じらない本来の占法に立ち帰ることを説いて、自ら「復古堂」と号した。


本 筮 法
本 卦

之 卦
3 水雷屯 24 地雷復
 
 ある依頼。
 大阪の武士が他家の葬儀に列席するのに知人から脇差を借りて、あとで返却したところ、これは別物だと、貸したものを返せと言い求められて、眞勢にところに駆け込んだ。
 中州、斎戒沐浴して、本筮法で求めた卦がこちら(→)。ここから眞勢は以下のように脇差の在処と紛失の経緯を判じて見せた。
 これが驚異的な卦読みなので紹介したい。


占 題
 脇差しは見つかるか

>>【水雷屯 スイライチュン】は「難」、【地雷復】は「返る」だから、卦の応じたことを示している。
 そして、之卦に【地雷復】が示されたのだから脇差が戻るだろうことを示している。これは分かる。


45 澤地萃
 
>>【水雷屯】は【澤地萃 タクチスイ】から来たもので、これは「聚(アツマ)る」。つまり、葬儀に人々が聚った時に脇差を間違えたのだ。
 ここで【澤地萃】が登場するのは来徴生卦という卦の運用による。眞勢 中州と言えば生卦の華麗な使い手だ。それで、来徴生卦と言ってもこのパターンは「彖 伝」に根拠のあるものではないが、【水雷屯】||(← 左を上に。以下 同じ)のちょいと目立っている陽の初爻はこれに応じる四爻にあったものとして生卦元の【澤地萃】||を取り出して来た、と。
 その【澤地萃】は【大坎】の 62【雷山小過】||の似卦。御難の意であるし、このトラブルの原因をここに探るわけだ。つまり、

>>【澤地萃】は人が裸になった画象だから、葬儀の時、裸になって衣装を改めたのだろう。そして、この卦は衆陰の中に二陽の脇差が相並ぶという画象だから、葬儀の時に間違えたに相違ない。

 ここまで【澤地萃】一卦に「人が聚る」・「裸体」・「二つの脇差」の三つの意味を見ている。
 ちなみに、裸体の卦と言えば、男は 15【地山謙】|、女は 10【天澤履】|||||。

八卦方位
東・・・青、春
南・・・赤、夏
西・・・白、秋
北・・・黒、冬
中央・・・黄 

   
 中国では、古来、方位は南を上にして画くが見づらいので。南に向かうことが上り。
 
>>【澤地萃】が【水雷屯】に之(ユ)くと初爻が変じる。初爻は北方だ。また、【水雷屯】の初爻に【坎】を配するが、これも北方だ。だから、その脇差は葬儀のあった家より北方にある。
 【澤地萃】の【水雷屯】に之くなら、初爻と四爻が変じる二爻変だが、初爻というのは先の来徴生卦の動きを見たものか。
 それから、この占の爻卦は初爻【坎】、四爻【兌】らしい。
 ともかく、ここで、【水雷屯】の「難」から【地雷復】の「返る」への動きにおいてではなくて、正しく【澤地萃】の「聚る」から【水雷屯】の「難」となる動きにおいて脇差の在処を探っている点に注目。尚、実際には脇差はあとに書く通りそこからさらに移動している。

>>【澤地萃】の別卦は【兌】だ。また、四爻に【兌】を配する。【兌】は西方。そこで、葬儀の家より西方に当たることがわかる。そのため、葬儀の家より西方で借りた脇差を葬儀の家より北方の人が取り違えて持って行ったことが分かる。
 【澤地萃】の別卦が【兌】、の意味が分からない・・・。四爻とは先の二爻変の内の片方だが、ここでそれらを使って、その【兌】の西を貸し主の位置と断じる辺りもよく分からない。こういう当て嵌め方は中州が手本とするいにしえの文献に見られるのやら。

 以上、脇差が消えた経緯を卦の上に解いている。中州の卦解きはキチンと筋立っていて、どれも極めて精密なのだ。そして、

>> だが、そこ脇差は【水雷屯】の【屯】難の主で、かつ、成卦の主だ。だから、その脇差はその家にはなくて、質屋にあるだろう。初爻は【震】の主だから東方の質屋に質入れしたのだろう。
 ここで道具が本卦【水雷屯】に戻ってくる。今、脇差自体が難に陥って質屋にあるということまでは着眼に感心しつつまあ分かるが、なんで質屋の方向として内卦【震】の初爻が出てくるやら・・・五爻の爻卦をそのまま採ってよさそうな。【震】の足を見たのか。なぜ初爻?

>> 葬儀の家より北方に当たる列席者の家に間違った脇差を持って行って、貴下のものではないかと尋ねるがよかろう。必ず知っていると言うだろう。
 そして、依頼人の武士がその通りにしたところ、果たして脇差が見つかったという。

 中州の勢占の妙、神の如し。このような占験は枚挙にいとま無く、当時 驚嘆しない者はいなかったという。これが弟子たちの創作でなかったらね(笑)。
 この占では彖辞・爻辞が全く使われていない点が注目されるが、江戸時代までは占には不用とされていたのである。



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